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ヒカ碁二次創作のお話置き場です(ヒカル少女化注意)

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リボンの棋士 56

 


階下に降りてみると、城にはすっかり明るさが戻っていた。

あちこちひどく壊れたところや、

…なにやら燻蒸した様な痕跡はあるが

朝早くから大勢が復旧に当たっていた。

「ヒカル様が生きておられたぞ!」

 家来達がヒカル達の戻ってきた姿を見て、歓声を上げ、取り囲む。

ヒカルが自分を女だと言い捨てて城に乗り込んで行ったことが衝撃的に皆に伝わって、王子と呼ぶ声は聞かれなかったが
相変わらず王子の格好のヒカルに、ほんとは一体どっちなんだと困惑する顔も多かった。

 「…そうだ、オレ、みんなをだましてきたんだよな。もしかしてお父さんもお母さんも、国民に裁かれて…。」

 

うつむいたヒカルの髪がぐしゃっとかき回された。

 

「ウワ!って、く、倉田さん…。」

「なあに言ってんの。ヒカル姫は、西の国に乗り込んで戦を終わらせ、謀反者御器曽を倒した。大英雄じゃん。」

 

なあ、そんな英雄が女だったからって、裁こうなんてヤツは、この国にはいないよなあ!

倉田の明るい声に周りの家来達は頷きヒカルやアキラを賞賛した。

 

「もっとも、ヒカル王子が女だと、にわかにゃ信じらんねえんだけどな。」

 ウンウンと頷く家来達に、ヒカルはガックリ膝をつく。

 

「安心しなよ、王…正夫様もおきさき様も、生きて帰ってきてよかったって、皆に歓迎されているからさ。」

「それは よかった…。」

そう答えるアキラの横で、 

「お父さん…、お母さん、」

ヒカルは、二人に会いたい、と立ち上がって、歩き出した。

二人を取り囲む家来達から、わっとかけられる祝いの言葉や、歓喜の涙の顔に、ヒカルは一人一人に笑顔で、しかし気が急いて落ち着き無く見回して応える。

そうするうちに、そっと背中を押されて、ヒカルは振り返った。


「それは後でいい、すぐに行きたまえ。ご両親に会いたいだろう。」

「アキラ。
 …ウン、アキラも…」

手を伸ばすヒカルに

「ボクはうちの家来達を安心させて上げなくちゃ」

「あっそうか。…じゃあ行って来る!アキラも行ってあげなよ!」

 

アキラに笑顔で肩を押し返され、 ヒカルは頷くと人の波をかき分けて徐々に足を速めた。

そして駆け出す。一目散に、父と母の許へ。

 

笑顔で後姿を見送るアキラの横に立ち、倉田大公が肩をたたく。

 

「ハハハ、お疲れさん。今夜は祝賀の宴をやるからな、絶対来てくれよ、おにぎりの人、じゃない、もう一人の英雄、塔矢殿。」

「 え、英雄?」

「そうとも!ヒカル姫を助け、国を救った英雄!あ、オレもソウだけどね!」

巨体の倉田が貫禄たっぷりに胸を張った。

「はあ…。」

「なんだ、しっかりしてくれよな、疲れてんのか?」

快いリアクションが返ってこなかったせいか、倉田は口を尖らせる。

「いえそういうわけでは。」

アキラの足元に目をやって倉田はポン、と肩に手を置いた。

「…、まあ、ゆっくり休め。

宴には、ちゃんと両方履いて来いよ。」

 

倉田の視線の先を追うと、草履が片方脱げた、自分の足があった。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

アキラが無事に帰還した、塔矢藩一行の部屋。


首の中に砂が詰まったように 否も応も言えず アキラはただ無言で立ち尽くしていた。

 

部屋に戻ったアキラを出迎えたのは 、お付の家来達の土下座姿。
しかも、緒方のみならず 芦原や市河までが白装束に身を固め、
喜びの辞もそこそこに、アキラに願いを申し立てていた。

「お願い申し上げます。若様、明日にでも、お国にお戻り下され!」

緒方が“お願い”といいながら、低く響く声でアキラに要求を述べていた。

 

「若、若はこの国の王子、いや、王女をお助け申し上げ、我々もまた、此度の戦ではいささかながら、こちらの国に御恩をお返し出来たことと存じます。
今宵の祝賀の席にては、おそらく、国王よりなにがしかの御礼を賜る事となりましょう。

……例えば、この国の姫様を…」

「 あ、いや それは…」

アキラが頬を染めて一歩引いた。が緒方はかまわずに言葉を続けた。

「お断り頂きたい。」

「…緒方さん。」

 

「ご理解頂けますな。

若の御勤めは囲碁の腕をお磨きになり、また世界をご覧になって見聞を広げ、藩の為にお役立て頂く事。

私どもの使命は、無事に若様を勉学の旅の道中お守りし、無事国元に帰還致す事に御座います。」

「緒方…。」

 

「…ご承知頂きます通り、私どもは、
塔矢藩主・塔矢行洋公に忠誠を誓いし家臣。

藩主のお許し無き御相手を連れ帰る訳には参りませぬ。 」

そう、彼らが普段アキラにつき従うのは、藩主の嫡男だからである。本人の意思より御家が大事。

 

当然の事であった。

 

「王女様とまではいかずとも…いえ、どなたを賜ると言うお話がありましても、決してお受けになりませぬよう、お願いを…」

「わかりました…。」

 

わかっているだって?

「ボクも承知しています。」

しているわけがない。こうしている間にだってヒカルと共に生きる為の一手はないかと考えをめぐらせている…。

しかし …。


自嘲が顔に出てしまう。アキラは返事をしながら顔を背けた。

 

「皆、ご苦労様でした…。」

「若様、あの…」

市河が心配そうに顔を上げた。そこに緒方の晴れ晴れとしたトーンの台詞がかぶさる。

「ご承知頂き安心いたしました。では我々は帰還の報告をしてまいりますゆえ、失礼いたします。」

「わかりました…。」

緒方が市河を従えて部屋を出て行く。芦原が後についていこうとすると

 

「(オマエは若に付いておれ!)」

「ウワ」

指一本で額をつつき返されて後ろ向きに部屋に押し戻された。

「んもう、ひどいな緒方さん~。」

アキラに監視をつけるためだというのは内心気付いていたがいつもの様に軽くリアクションを返す芦原であった。

 

「…あの、市河さん…。」

「はっ ハイ?」

急に呼び止められ市河が慌てて返事した。

「…、その服は着替えてから行かれた方が良くは無いですか?」

市河は自分の着る白装束を見下ろした。
まるで仇討ちに出かけるところのようだった。

「緒方さんはともかく…。」

「どういう意味ですかな若!」

結局、衣装をいつもの姿に戻して、城の廊下を市河と緒方が歩いていった。

しばらくして風の良く通る渡り廊下に出ると、緒方が片笑みを浮かべ、小さく息をついた。

 

「…緒方様、」

市河が心配そうに声をかけた。

「うまくいったな。」

「やりすぎじゃありませんか?」

「女は甘いな。 」

緒方は、手ぬぐいを懐から出すと、土下座で袴についたらしき埃を丁寧にはたきながら言った。

「先手をとらせて貰ったまでだ。
若の言い出すことなど、わかりきっているのだからな。」

「…」

「間違いなどあってはならん。
… たとえ事実どうあろうと、…決してあってはならんのだ。

例え相手が一国の王女であろうと、リボンの棋士と呼ばれる稀代の女流棋士であろうと

…という以前に、“有ったか無かったか”など、一目瞭然だろうが。」

 

「私にそんな眼力はございません。

…おそらく緒方様のおっしゃる通りなのでしょうけれど…。 」

市河が沈んだ顔で答えた。

「緒方様の作戦勝ちですわね。
…でも私は若様が…。」

 

「不憫か?」

緒方は外を眺めながら、懐に手ぬぐいを戻した。

「旅先の恋に手を貸して、歩む必要など要らぬ棘の道を、共々に歩む気でもあるまい。
そなたも白装束を着て三つ指ついたではないか市河。」

「三人そろって死に装束はさすがにインパクトがございましたでしょう。卑怯なほどに。」

「…、卑怯とはずいぶんだな。」

命を道具に要求を飲ませたのだから、卑怯と言っても十分じゃないかと市河は言う。

「緒方様だけは普段となんら変わりませんけれどね。」

 

「何をいうか いつものは普段着で

これは、 ホ ン モ ノ だ。」

 

いつものはパチモンの白装束なのだろうか。

 

「私達に出来る事なんて決まっています…若様だってそう…ええ、わかっています。」

市河はため息混じりに呟いた。

「ただ、若様は、決して大義のためにおっしゃったのではありません。
私たちの命を犠牲に出来なかっただけですわ。」

お家のために緒方の指示に従った市河だが、心のなかでは、男の理屈なんかくそくらえ とはしたない言葉を緒方の脳天に岩石落しでぶっつけたいところだった。

 

 


「…若様、若様はどっちかっていうと、リボンの棋士がすきだったんじゃないんですかね?」

「…エッ?」

沈んだ顔のアキラに芦原が訊ねる。

どちらか、とは一瞬何のことを訊ねられたのかわからなかったが、しばらくして合点がいった。
リボンの棋士の正体が誰かなんて、殆んど誰も、知らないのだ。

 

「…お城から社王子が逃げたとき、手引きしたのはリボンの棋士だったんでしょう?」

「…ええ。…」

『 そうか、リボンの棋士が帰ってこないということは、こりゃ社王子に取られちゃったかな?それとも、戦いで死なせてしまったか…。どっちにしろ、若様には辛いことだな…』

芦原は お兄さんぶってアキラにアドバイスを試みた。

「ゴメンゴメン、あ、いや申し訳ありませぬ、軽々しい質問をしちゃいまして…。
若様もお辛いでしょうが、ここは辛抱しなくてはいけませんよ。
あの娘を忘れるのは大変かもしれないけれど…。」

 

アキラは辛そうに笑みを浮かべ首を振った。

 

「とても忘れることは出来そうにありません。
…ボクは彼女の事を知りすぎてしまった。」

「…
……
………
(がーん)!」

わわわ若様!

カワイイ弟みたいだと思っていたら いつの間に大人の階段を昇っちゃったんだろう!

 勝手に勘違いして大ショックを受けている芦原、頭を抱えて苦悩しだした。

しかしこんなことがあるとは思ってなかったぞ!
落し胤って問題があるから そのへんの判断はしっかり冷静にと教えていたと思うのだけど、…担当は緒方さんだからなあ。
逆に手練手管…
はっ、そういえばあの人、「自分の持ってる刀の切れ味くらいは理解しておかねば恥をかく」なんて言ってたコトあったよなあ…

アレってそういう意味か??そういう意味だったのかも?
うわあああああ !

「あの芦原さん…?」

変な苦悩ポーズで身を捩っている芦原に恐る恐る声をかけるアキラ。

『…はっ そうだ、こんな一人勝手に苦悩しててもしょうがない、一応確認しておかなくちゃ家臣としての勤めが…』
「ゴ、ゴメン、じゃなくてかたじけない(←混乱)。ええと、わ、若様、

あの、…知りすぎた、 というのは…ぐぐぐ具体的に申しますと いいい一体 」

 

「え、あの、…それは彼女に了解を得ずには言えな…」

「わー!みなまで言うな!じゃなくておっしゃらずともー!ごめんなさいごめんなさいおのおのがた!」

…自分で自分を更にパニックに追い込む芦原。

ヒカル本人から許可を得ないことには正体を明かすことは出来ないと思っただけのアキラなのだったが…。

 

成り行きはどうあれ緒方の思惑通り、芦原を置いていかれたお陰で、悶々と時を過ごすことだけは、どうしたって出来そうも無かったアキラであった。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

一方ヒカルは、王と王妃、侍女のあかりのいる部屋に飛び込むや、ベッドに臥せった父に飛びついていた。


王様、いや元王様は、めでたく生き返ったとはいうものの、一晩でガックリ老け込んだ。

心なしか小さくしぼんだような気さえしたので、ヒカルは心配そうに声をかけた。

 

「お父さん、やっぱり死んだと思われてたり、王様代替わりしちゃったのがコタエたのかなァ…。」

「いやいや、そんなことはいい。王位を退いたのも、かえって気楽でよいよ。お前に王位を譲れなかったのが申し訳ないが。…」

正夫 はまた肩をガックリ落とすようなため息をついた。
「ガッカリしないでよ、元々オレは娘なんだから。
はなっから王位は継げなかったんだって思えば、気がラクにならない?」

「……、娘、と晴れて呼べるようになったと思ったら もう乙女ではないとはなあ…」

「え?ナニ?」

「…あなた!…」

「まあよい。塔矢の若君はよい男だ。それは確かだ。 …遠すぎる国の跡継ぎなのがさびしいだけさ…。」

 

「お父さんは何をモゴモゴ言ってるの?」

ヒカルは母に尋ねた。笑って誤魔化す母、美津子は

「それよりヒカル、昨日までいろんな事があったんでしょうねえ、話して頂戴、今までのことを。」
「エット、何処から話したらいいか…」

 

結局、西の国に行ってから ずっと…御器曽が滅びたところまでをざっとかいつまんで語ったヒカル。

かいつまみすぎてありがたみの無い印象すらあったが、部屋にいた皆は社王子の身の潔白や、倉田の思わぬ活躍、そして何より塔矢アキラの半身を担う働きに聞き入っていた。

顔から血の気の引いたような父王だったが、その後の話が朝までグースカ寝ていた と続いてしまったのをふさいだ耳の隙間から漏れ聞いて、顔を上げた。

美津子も気がかりなことがあったらしく、ヒカルに問いただす。

「もしかして…あの…“女になった”と言ったのは
男の魂が無くなった、という話のこと?」

「ウン。」

「昨夜は…その…疲れて朝まで起きなかったって」

「そーだけど?」

「あの  …ヒカル様?」

「ナンだよあかり…ウワッ!?」

ものすごい勢いで隅っこに引っ張られていって、ヒカルはあかりにコソコソ話をさせられる。
 
遠目にはヒカルがブンブン首を左右に振ったりおずおずとうなずいたり笑ったり怒ったり恥ずかしそうにうつむいたりと
大層忙しい打ち合わせのように見られて、両親はそれをハラハラした気分で見つめていたが、

やがてへたったヒカルを部屋の隅っこに置き去りにして、あかりがしずしずと二人の前に戻ってきた。

 

「あのぅ…、両殿下に申し上げます。…おそらくは真実と思われます、ヒカル様のお話を信用いたしますれば、… 」

 

あかりもさすがに赤面止まずに口早に報告した。

「姫様は今も純潔をお守りです。」

 

「…あら。」

やっぱり? と、美津子は意外なほど低いトーンで反応した。
が、
王様はどういうわけか、みるみる活気を取り戻し

「そうか そう いや、 あの者はやはり紳士 サムライであったなあ あははははそーかそーか!
いや、あっぱれ! 」

なにがあっぱれなのだろう。

ヒカルは訳がわからないと頭をかいてその光景を見ていた。

ヒカルはそれよりも

アキラと心を通じ合わせた事まで敏腕刑事の如きあかりにゲロッたのを今更赤面して恥じ入っていた。

「んで 聞き出したハナっから、ナニお父さんやお母さんに報告してんだよ、あかり~~?!」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

「どうした、ご主人が無事で嬉しくないのか。」


厩舎では黒馬が首をガックリ落としてため息をついていた。

「…オレ 引退かもしんねェ。」

 

隣の馬房から白馬が首を出す

「なぜだ?」
「だってオレ牡馬だからさ。
お姫様の馬にはどうかって。」

馬丁がうわさしているのを聞いていたらしい。

 

「ああ。…なるほどね。」

 

「ム。…オマエは牝馬なのに、若殿様を乗せてんだよな 。」

牝馬は冷静だからね。長旅の間に馬っ気など出さずにすむ。」

「う… 、オマ…それ… って、オレが冷静じゃないってのか?!」

「そうは言っていない。
しかし、そう問われたら そうだ と言うしかないな。」

「ナニをォ、ムカつくヤツだな、オマエってば!」

「ほら、まさにその通りじゃないか。」

「~~~~~!」

 言い返せずに黒い首を振りたてて藁を踏み鳴らすヒカルの愛馬。
強い鼻息ひとつ立て、やがて元通りにシュンとうなだれた。


「…なあ オレお役御免になったらさ、オマエたちが帰る時についてっちゃダメかな?」

「え。」

「これで …オマエ とお別れかと思ったらさ、 つれェな、と思うんだよ ウン…。」

「………。無理だ。
私はしゃべれないからね。頼み事は出来ないよ。」

「ンな事ァわかってるよ。」

「なら聞くな。」

 

「オマエなァ…」
「なんだ。馬のクセにおしゃべりだな。」

「…くどいてんのって、わかってる?」
「~~~~!?」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

桑原博士の行方がまたわからなくなった。


ヒカルを陥れようとしていた悪事も明らかになり、しかし国を救う手助けをもしてくれるという大恩もあり、どういった扱いをすればいいのか皆が途方にくれていたが
気が付くと箒共々姿を消していた。

「長居にも程があるわい、全くワシとしたことが。」

 

遠くなっていく城を振り向きもせず、箒の上で自分の肩を揉む桑原。
山の上にさしかかり、東の異国が目の前に広がる辺りまでくるとようやく肩越しに振り返って、ニヤリと顔の皺を深くした。

「…さて。此処までくれば、よもや、また奴等に頼みごとなどされまいて。」

箒に乗ったまま懐からパイプを取り出して、口からポカリと煙を吐く。

 

「さてこれからか…。 
東の大陸の仙人にでも会うか…さらに果ての島に行って囲碁好きの藩主と手合わせするか」

 

自分を取り巻いて消えてゆく煙を眺めてしばらく考え込んでいた老人は、

楽しげに鼻歌など歌いながら、東の空へと姿を消した。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

あっという間に一日が過ぎ、夕日の落ちる頃、 祝賀の宴が開かれた。

アキラは、従者と共に、初めてこの城の宴に参加したときと同じく、羽織袴に身を包み落ち着いた風情で現れた。

あの時と明らかに違うのは、国を救った恩人として誰からも礼を述べられ丁重にもてなされた事と、彼らが住まいとして使っていた部屋の中が、早くもすっかり片付いていた事かもしれない。


「アキラ…」

 

ヒカルの声に振り向く。

そこには
リボンの棋士

いや、
淡い金銀の糸で織り上げられた光のようなドレスを身にまとった王女、ヒカルの姿があった。

頭上にはリボンならぬ、輝くティアラを頂き、何処から見ても 生まれながらの愛らしい姫君だ。

アキラは息を呑んで見つめる。

 

「…な ナンだよ 」

頬を染めて口を尖らせるヒカルに アキラがやっと笑った。

 

「やっぱりキミだった。」

「え?」

「その口調。」

言葉を発しないうちは、髪こそ短く活発な印象の色合いだったものの、その姿は可憐なリボンの棋士そのものだったのだが。

「悪かったな 」

「いや 悪くはない 」

「へ?」

「よく似合ってる。素敵だ。」

まぶしそうに微笑みかけた

「あ、アリガト…」

ヒカルは照れて一瞬うつむいたが またすぐ顔を上げた。

「…  でも、どうかした?」

 

「え?」

 

「なんだか つらそう だからさ…」

…微笑みかけてくれるときに、唇を噛んでいるのは何故なんだ。
辛そうに眉を寄せているのは?
痛みを堪えて無理に笑ってるみたいな気がしたんだ。…体の調子は大丈夫か?

ヒカルの問いにアキラはだまって、首を振っただけだった。

しかしその笑顔からは、やはり棘が抜けないままのようで、ヒカルは心配そうに首をかしげた。

そんなところで突然、ヒカル達は大勢の客に取り囲まれる。

周りの者達は、実はヒカルが女だったと聞いてはいたが、正直半信半疑だった。そんな所にお姫様の格好で現れたことで、大層大騒ぎになり、正式な挨拶を待てないせっかちな客人達がたちまち群がった。

客人の中には、どうしても信じられず、つい、こう尋ねる者もいた。

「あの、王子様 
王子様はいったい、いつ頃 姫様になられたのですか?」

「…生まれつきだけど…?」

「エエエエ~~~!」

いっせいに起こった驚きの声にヒカルは憤慨した。

「ナンだよソレ!」

「いやてっきり つい最近のことかと」

「なんでだよ!」

「いえあの 何かマホーで」

 

いっせいに取り囲んでいたたくさんの顔が頷いた。

 

「あのさァ…
ア、コラ!笑うなッ!アキラ!」

 

「だって…」

アキラは目元に浮いた笑い涙を指でぬぐって言い返した。

「心配していたんだ。」

王女で生まれたのを王子と偽っていたと、周りのものは責めやしないか、罪に問いはしないかと。

「アキラ…。」

それであんな顔してたのか、ヒカルはそう思ってアキラにありがとうと呟いた。

…本当のところは、アキラの苦悩は別のところにあったのだが。

「しかしこうして拝見しますれば、なるほど王子様などと疑う余地なき愛らしさ!いや、優美にして可憐、姫君らしい気品があふれておりますな!」

 

…えらく褒めちぎる客人がいると思ったら、誕生日の祝いにヒカルを凛々しい王子だとほめてくれた、どこかの領主だった。

ただ、ヒカルが格好さえちゃんとすれば、何処から見ても愛らしい姫君、とは誰もが思うところらしく、誰からもよい評判を得た。

…ただし、しゃべらなければ、だが。

風貌こそ可憐なれどもその中身は、剣を握れば悪魔も倒し碁石を持てば決勝まで勝ち進む、古今無双の豪傑のようなお姫様

… の登場を、皆が心から歓迎してくれていた。

 

(いや、中には歓迎しない者もいるかもしれないが、とてもそんなことはおくびにも出せないものである。
こんなおそろしい相手を敵に回すなんて、迂闊にできるものであろうか。命あっての物種。)

 

この宴が好機、と、縁談を持ち込もうとする者が現れるのでは と心配したのは実際塔矢家の跡取り息子だけで

全くの杞憂に終わったことは言うまでもない。

 

さて、宴に集まった者達のなかでは、これはリボンの棋士の変装ではないかと言う声も多く上がった。

「しっ、リボンの棋士は、西の国の王子と逃亡したのではありませんでしたか?」

「え、しかし、社王子は悪事を働いたわけでは無いと…、むしろ王子さま、いやお姫様を助けて共に戦ったのでは」

「リボンの棋士の話はあまりせぬほうがようございましょう。ここはお祝いの席でありますゆえに。」

…あまり噂にしていると良くない話であるらしく、ヒカルとリボンの棋士がずいぶん似ていると内心では思っているものの、誰もその事を本人には聞かなかったのであった。

… まだ祝賀の宴の始まる前だと言うのに、恐ろしい盛り上がりようだった。

 

宴の始まる前に、倉田国王は「おふれ」を発布した。

その内容は、今後この国は女性であっても王位を継げる、というものだった。

その後倉田は自分の王冠を頭からはずして、ヒカルに王位を譲ろうとしたのだが、しかしソレはムリだった。

「えー ただいまのおふれの無効であることについて、ご説明いたします。」
大司教が審判長の如く、おもむろに口を挟む。

「法律を変えたからといって、直ちには有効にならぬ場合がございます。」

「どゆこと?」

倉田が訊ねた。

 

「この度、王女も王位継承権を持てると、こう法を改められましたな。」
「ウン。」

「しかし、今、ヒカル姫様に王位をお譲りになる事は出来ません。それだけではなく、 例え倉田大公・もとい・国王に姫様がお生まれになられましても、その王女様に王位は継承出来ないのでございますぞ。」

「なんで?だって王様のハンコつきでおふれを…」

倉田はその手に、文面を保障する意味で王の印が押し当てられた封蝋つきの、仰々しい体裁の羊皮紙を振って見せた。

苦々しい顔で、目の前をバタバタ往復する羊皮紙を押しやり、大司教は言葉を続けた。

「王位継承に関する法律にはいささかキマリがございます。」
「キ マリ?」
「木の鞠じゃありませんぞ。ヒカル姫。」
「言ってねェよ。」

言うつもりだったと決め付けられていささか憤慨するヒカル。

「…まだ。」
訂正。言う気満々だった模様。

 

「つまり、どういうことなのかはっきり手短に言ってくれよ。」

倉田は急いでもいないのにしょっちゅうこう言うクセがあった。

このえらい僧侶はそれに頷き、懐から、倉田が振っていたモノの三倍はでかい、文面の下に封蝋の十何個も連なって押された古くて仰々しい体裁の羊皮紙を取り出すと、そこに書かれた条項の何十項め だかを読み上げた。

 

「エー… “王位継承権に関する法の変更は 次の王位継承がなされた後に有効となる。”以上!」

 

本当に手短に言われて倉田は目を白黒させた。

「て つまり …どーゆーこと?」

 

僧侶が言うには、王位継承に関わる掟の書き換えは、次々代以降に有効となる、というのが決まりらしかった。

倉田が首をかしげる。
「なぜそんなややこしい決まりなんだよ?」
「…アンタ手短にて言うておられましたのに…」


王位継承は重要な事項故に、浅慮の決断が許されない。
自分の都合よく掟を変えられては大変だ。
それに陰謀によって左右される事もありうる。

ゆえに王位継承者に関する掟の変更は、次の王位継承者ではなく、次の次の継承者の時に初めて有効となる。

「…つまり、ヒカルはどっちにしろ、王位を継げない、ということですか。」
美津子が呟いた。どっちにしろ、というのは、正夫が王位にあった時に法を改正していたとしても ということらしい。

「えーと 一体何がどうなってるんです?」

芦原が緒方に尋ねた。

「今説明があったろうが。…その時の王様が、自分の子供の都合に合わせて、いいように法をコロコロ変えられない様に、制限が設けてあると言うことだろう。」

どこかに網の目があるはずだとは思うがな、法なんぞそういうものだ。緒方は成り行きを半分楽しんで静観しているようだった。

「…まあ、王位なんぞ、ヒマなヤツが引き受けてくれたほうが、ありがたいと思うがな。」

「…じゃあ俺、王様になってもあんまり役に立たないなあ…」

倉田はとたんに頭上の王冠が厄介者に思えて、両手を頭上にあげた。

「いけません いったん王冠を頂いたからには 貴方は王です!」

僧侶がキッパリ云った。

しぶしぶ頭の王冠から手を離す倉田。

そのやり取りを見てヒカルが大きな声で笑った。

やけっぱちな声ではない。朗らかな、明るい声だった。

「もう、 どっちでもいいよそんなの。」

ヒカルは皆の注目の中、カラリと言ってみせた。

「王位がどうとか オレ、こだわってないからさ!
オレの望みはただひとつ、悔いのない様に生きて、神の一手を目指す!」

アキラのほうを見てニッコリ笑顔を投げかけるヒカル。
アキラも穏やかな笑顔で確かに頷いて見せた。

しかし周りにいた者達は、眉間に皺を刻んで顔を見合わせる。

これだけ国に尽くし、皆の人気を集める姫君には、次の王冠を頂いてもらいたかったのに。

王権は神の賜るものとはいえ、一度その期待をしてしまった者たちには、それが実現しない事が大層残念な事に思えて仕方がなかった。

 

祝いの席がしょっぱなからお悔やみムードに似た雰囲気に包まれる。




「あ、
そーだ。」

倉田王は何をピンと来たのか、拳を手のひらに打つと、頭上の王冠をいともあっさり頭から浮かせた。

「お、王様、いけませんと申しましたばかり…!姫君には位は譲れませ…」

坊さんの言葉を聞きもせず、両の手に挟み掲げた王冠を、倉田王は

正夫の頭にのっける。

 

 

「…な、何かね???」

「ハハハ、つまり譲位ってことですよ、伯父上。」

王様復活。

倉田は大喜びで王位を正夫に返したのだ。

 

「ハイ、コレで“1回”。」

「ナニが1回、ですか?」

坊主が眉間に皺を刻んで尋ねた。

「王位の継承が、だよ。オレから元王様にもう一度王位を継いでもらったろ?」

だから…

「ああ、わかった!つまりお姫様は、めでたく次代の継承者ですね!?」

古瀬村が高いトーンで叫んだ。 それに倉田が指を立てて愉快そうに答える。

「ピンポーン。」

「…いいんですか。」

そんなピンポンみたいに王位を行き来させるなど前代未聞な…。
坊主が倉田・元・国王に問う。

「イイんだよ。法は曲解される為にあるんだから。」

「ホントかなあ?」

自分に好展開だというのに腑におちない表情のヒカルに、倉田はハハハと笑う。

 

 

「王様、バンザーイ!ヒカル王女、バンザーイ!」

周りを取り囲む者達から、喜びの歓声と拍手が起こった。

「…おやおや。」

緒方はあきれた顔で目を丸くしてその成り行きを見ていた。

「よかったですわね。」

「…よかった、のかどうかはわからんさ。」

また緒方様は…、市河がそう言うが

 

『いっそ第一継承権など失ってしまえば、もう少し自由になれたかもしれんのにな、お姫様。』

緒方は一人、気の毒そうに肩をすくめた。

 

見ればアキラも同感だったのか、心なしか肩を落として立っている。

しかし、ヒカルにとっては喜ばしい事だと言う思いがあってか、祝福の拍手に自らも加わっていった。

 

「では王様、」

倉田・元・国王、現・大公が恭しく言った。

「あたらしい国王様、 ご挨拶を、お願いいたします。 」

 

 

演説の後、いの一番に玉座の前に招かれてひざまづいたのは、ヒカル王女。

父王からの感謝の言葉を改めて受け、まぶしそうに笑んで頬を染めた。

王妃は目頭にハンカチをあて、娘の晴れ姿を見守っていた。
その姿に見覚えのあるヒカルは少々不安な顔になって訊いて来た。

「…おかあさん、やっぱりドレス、似あってないかなァ?」

「……似合っていますとも! ああ、よかった、素で似合うドレスがあったなんて…!
…ってナニ言わせるんですか。違うでしょ。

ヒカル、なにより私は貴方が、それにこの人が生きていてくれて、それが一番幸せです…!」

あかりが新しいハンカチを差し出すと、ぐしょぬれのものと取り替えて、王妃は再び顔を覆った。

ヒカルは両親にかわるがわる抱きついて、喜びを分かち合い、あかりに導かれて玉座のそばに並んで立った。

次いで、倉田大公が王の正面に立つが、自ら

「以下同文。」

などと言うと、笑顔で頷きあうだけの簡単な挨拶で全てを済ませ、大公はヒカルと反対側に歩いていって並び立つ。


続いて、騎士たちや棋院の棋士たちの叙勲は続き、和谷や伊角も晴れがましさに頬をそめて、ヒカル王女から勲章を受けた。

 

「伊角さん、今までありがとう。棋院でも力になってくれたんだね?」

「いえ、俺はそれほど…」

照れと恐縮で真っ赤になる伊角に、ヒカルは労をねぎらうように伊角の肩に手を置いた。

「もう、内緒にしなくたっていいからな。」

「…ヒカル王女…!」

伊角はそう呼んで、満面の笑みを浮かべた。

「…オレ、伊角さんのそんな顔、初めて見た…。」

「一度、堂々と、そう呼んでみたかったんですよ、
 …おめでとうございます、ヒカル王女、これからも末永くその身に栄光あらんことを。」

「そんなセリフ、スラスラ言えるんだ。頭いいなあ伊角さん。」

「ハ、ハハ…。」

 

「それくらいにしとかねえとバカがばれるぞ。」

和谷がこっそり耳打ちした。

「和谷。」

あっと口に手をやる和谷。王女相手と言う気が全然なく全くいつもの調子でつっこんだことに自ら慌てていた。

「あ、いやそのあの」

「和谷、オマエも本当にありがとう。」

「いや王子、じゃねえ、王女様…だったとはなァ…って失礼、」

またも口を慌てて塞ぐ和谷にヒカルは笑いかけた。

「和谷とはいつも、タメ口きくのがすごく楽しかった!オレ的にはこれからもそうしたいんだケド…」

傍らの母、美津子が送ってくる恐ろしい眼光に縮み上がり、

「…ってわけにも行かないからオレも少しづつ女の子らしく振舞うようにするよ。これからは棋士として頑張ってくれよ。ヨロシクな。」

森下師範が横から声をかけてきた。
「そうでした、今がいい機会かもしれません。よろしければ新棋士の叙任も今此処でお願いできませんかな。」

「免状でも渡すの?」

「騎士の叙任と同じく刀礼を。」

「へえ…。よしワカッタ。」

「え?いや、あの叙任は王様か王子様が… って王子様は今おられませんからして、あのう…!」

 

未だ王女の自覚がないのか、ヒカルはさっさと傍らから愛用の剣をとると、シャン、と音をさせて鞘から抜いた。

 

反射的にひざまづく和谷。

 

あちゃあ、というポーズの森下を他所に、ヒカルはうやうやしく和谷の首に剣をあてた。

 

「なんじ王立棋院の棋士として囲碁の研鑽に勤めるべしー。」

「ははあ~。」

「…あんな挨拶なんですか?」

伊角がコッソリ白川師範に耳打ちする。苦笑しながらかすかに首を振って森下を見た。

甘栗顔が眉間にしわ寄せてうつむいている。

 

 

「…あっ 、なんだこの剣は?」

首筋に当てられた剣に目をやった和谷はすさまじい刃こぼれを目にして思わず声を上げて掴んだ。

「お、おい、あぶねえッ」

自分の力作の悲惨な姿に和谷は泣きそうな顔をして、ヒカルの剣を両手でさすりながら語りかけた。

「おいおい、なんて姿に… あとで治してやるからな。」

「オマエ、たった今棋士になったんだぞ?」

「自分の“仕事”は自分で何とかする。他人に任せられるか。
アフターケアくらい、時間を見つけてやってやらァ。」

「… あ、…アリガト。  …てな感じで、叙任式ってこれでいいかな?」

ヒカルは両のてのひらを天に向け、首を傾げて訊ねた。

訊ねられても。

もうどうとでもなれといった顔で森下は天を仰いだ。

 



…最後に 塔矢藩の面々が玉座の前に招かれる。

「ふれあい囲碁まつり」の決勝に進んだ塔矢アキラの囲碁の腕を賞賛されるに始まり、西の国との戦いでの一同そろっての功績、ヒカル王女を支えて、敵を倒して共に無事生還した事への謝辞が長々述べられる間、一同は礼儀正しく頭を垂れて聞き入っていた。

授与された黄金の勲章が着物の胸元にゆれるのを、アキラは少々おさまりが悪いように思いながら見下ろしていた。

「アキラ、おめでとう!」

ヒカルの声に顔を上げ、やや苦笑交じりに笑みを返す。

ヒカルが祝福のキスを贈りたくて、頬を染めながら一歩近づいてきた。

 

アキラが何か言おうと口を開きかけたとき、

「塔矢殿!」

父王がそれらを遮る様に朗らかに口を開け、大きな声で礼を述べだした。

「いや、この度はわが国を救う数々の働き、これしきでは礼を述べ尽くす事もできません。」

「お父さん。」

「褒美は何でも欲しいものを差し上げましょう、

ただし…

ヒカル以外。」

 

真顔で言う父王。

 

 

「お父さんっ!?」

「あ 領土もね。」

「お父さん!?そんなもの…、」

ヒカルは憤慨して父王のこすっからい発言を諭そうとした。

 

「礼など …お言葉だけで十分です。」

「…エ?」

「おお、さすが東洋のサムライ、噂以上に礼儀正しく謙虚なお方だ。」

「ただひとつお願いが。」

 

「…何かな。」 

正夫の目が用心深く光る。

 

「決勝戦の対局、まだ打ち切っておりません。」

ヒカルは驚きの眼差しでアキラを見つめていたが ハッと我に返って父に訴えた。

「…そうだ、打とう!
お父さん、お願い、続きを打たせて!」

父王は意外な申し出に言葉を用意していなかったが、コホンとせき払いすると家来に命じた。

 

「月の碁盤を。」

 

決勝戦のときに使われたと同じ、見事な碁盤は、広間の中央に据えられた。

 

碁盤が運ばれて何事かとざわついていた客達は、決勝戦の続きが打たれると知らせる声に、いっせいにどよめいた。

用意された碁盤に向かって歩み寄る塔矢アキラ。

 

しかし問題はもう一人の対局者。

 

皆が一体何処から現れるのかと待ち構える中、ドレスを揺らして碁盤に近づくのは、

 

「あれ、ヒカル王…女?」

「本当だ、ヒカル王…女だ」

「リボンの棋士じゃなくて?どうして王…女様が」

みんなどうしてつっかえるのだろうか。カマずにスンナリ呼んでやって欲しいものだ。

碁盤の両側に用意された椅子。その横にそれぞれが立ち向かい合って見詰め合う。

なんの戸惑いも無くヒカル王…女 もとい 王女を迎えるアキラの眼差しは対局を前に静かに燃えていた。

 

ひとつ小さな息をつくと、二人は同時に静かにお辞儀をする。

アキラは真っ直ぐな姿勢で頭を下げ、ヒカルはスカートを両手で捌きうやうやしくお辞儀をした。

碁盤の上に中断するまでの石が記録に従い並べられた後、対局はリボンの棋士、すなわちヒカルの番より再開された。

碁盤を挟んで二人は眼前に広がる黒と白の絡み合いをじっと見つめた。
そこに拡がる石の並びに 二人の心はあの満月の夜に飛ぶように戻った。

白と黒の石たちが、劇的な戦いを盤面に描いて、様々な色彩を放つように散らばる。 

二人の前に最後に残された 佐為の痕跡

それを受け継ぐヒカルと
立ち向かうアキラの 

油断なき せめぎ合い。


二人は声もなく見詰め合うと、その目に気迫をみなぎらせ、ヒカルは碁笥の中に手を伸ばし、アキラはヒカルの一手を待った。

未だにリボンの棋士がヒカルであったことを信じられない者がほとんどだったため、最初、場内はかなりのどよめきに包まれた。

しかし、ドレスを身にまとい、碁盤の前に座すヒカルの風貌、
そしてしばらく逡巡のあと、石を持って狙いの一点に向けて石を放つ仕草。
百聞は一見に如かず という言葉がこれほどピッタリな状況もなかった。

…注目すべきはその事実のみではなかった。
この戦いがまさに決勝戦の続きである事を、人々はこの後、盤上に散る石の応酬に思い知らされる。

アキラの放った龍のあぎとがヒカルの虎の尾を追い 鋭い爪で銀の鱗を引き剥がそうと虎の体がしなる

喰らいつき、もぎ取り また新たな牙を生やし ほころびをめがけて飛びつく

決して 語り合う静かな碁ではなかった。

誰も入り込めない 熱く熔ける炉の中に渦を巻いて意識はその中心に没入していく。

やがて盤面は新たに打ち込まれた石達によって意味を変えられ形を変化させ

二人の色で濃く染まる。

その底に 淡くはあるが決して消えない佐為の彩を残して

観戦する者誰もが固唾を呑んで見守った戦いは、それでもおよそ1時間ほどで終局を迎えた。

盤面は恐ろしく細かく、最後の一手まで周りの緊張は解ける事がなかった。

 

打ってきた二人には勝敗の行方はわかっている。

そばで見守っていた棋院の者や塔矢藩の人間も
終局をにたどり着いた盤面を見守ってため息をついた。

結果は、ほんの僅かの差で アキラが勝ちを得た。

ほんの少し あと一歩、いや半歩が及ばなかったと

美しいドレスを身にまとっているのに、ヒカルは膝に拳を握って悔し涙を浮かべた。

 

アキラは戦慄を覚えた。
この国に訪れて間もなくの頃、此処で打ったあの初心者同然の相手が今、自分と互角に戦うまでに迫ってきている。

 

月蝕のためにほんの数手で中断したものの、決勝の夜に感じた手ごたえは、幻ではなかった。

佐為のお陰とヒカルは言うが これから彼女はどう成長していくのだろう。

もっと打ちたい そして知りたい

未だ興奮冷めやらぬ 震える指先と弾む心臓が、ヒカルを離すなと騒いでいる。

棋院の師範らは顔を見合わせ頷き合い、森下師範が咳払いをひとつ、

「ええ、では…“ふれあい囲碁まつり”大会優勝は、塔矢アキラ殿…!」

周りからは拍手喝采が起こった。

「伊角さん、すごかったな!」

「ああ、ヒカル王…女も、素晴らしい戦いを見せてくれたな…。」

伊角は晴れ晴れとした顔で拍手を送っていた。

 

「しかし信じらんねェな、あのリボンの棋士がヒカル…王女とはさ…。」

「ハハ。…そうだな。それは俺も知らなかった。」

「へ?」

「いや、なんでもない。」

 

秘密を守る覚悟に目覚めてから、ずいぶんと逞しさを感じさせるようになった伊角だが、その秘密はもう隠し通す必要がなくなった。

肩の荷が下りてほっとした所に、この対局を見せられて、それまで感じたことのない闘志が伊角の中でめらめら燃えていた。

「和谷、俺たちも負けていられないな、俺も…、あんなしびれるような対局を、俺も打ちたい…!」

「俺だって!…伊角さん、俺、やるぜ。これからは棋院で、火花の散るような対局を打ちまくるんだ!」

「和谷らしいな、」鍛冶屋的表現だと伊角は笑う。

「俺は… 碁会所で一年頑張るよ。来年の大会に向けて、腕に覚えのある棋士をどんどん招いて戦っていこうと思う。」

「街の碁会所もオモシロクなりそうだな、負けてらんねェ。」

「俺こそ負けないさ。王立棋院だけが強いわけじゃない、って …」

周りが皆王立棋院の師範だらけなのに気付いて一瞬焦るが

「俺はあの場所を、みんなが気軽に碁を打てるだけじゃなくて、開かれた、活気あふれる闘いの場にしていきたくなったんだ。」

伊角が胸を張ってそう言うと和谷は頷いた。
棋院の棋士たちに混じって引けをとらない腕をみせた伊角だ。
今までにない野生的なオーラを放つ姿に、これから思いがけない化け方を見せてくれそうな予感がして、和谷は早くもワクワクする思いで拳を握った。

「手強そうだな、伊角さん!」

「いつでも相手してやるぞ。」

「お…俺は王立棋院の棋士だぜ?」

「ハハハ、じゃあ、うかうかと街の碁会所なんかで負けたり出来ないな。せいぜい腕を磨けよ。」

「伊角さん…キャラ変わったな。」

伊角の見せた、男臭さの漂う不敵な笑顔に、和谷は目をパチクリさせた。

 

 

二人の戦いを見つめていた父王は、棋院の森下師範らと言葉を交わしていたが、

「ヒカルがこれほど強くなっているとは思わなかったなァ。」

そう言いながらヒカルの肩に手を置いた。

「…おとうさん…。」

見上げた父の顔は優しく、そしてどこかその目の奥がいたずらっぽく見えた。

「よくやったぞ、ヒカル。

しかし一体いつの間に碁がこれほど上達したのかね。“王子特訓プロジェクト”のお陰かな?」

「だから佐為のお陰だって…。」

おとうさん、ホンットにハナシ聞いてないな。

継承者の間に訪れてまで来たのに、この理解度の低さ。

ヒカルは苦笑するしかなかった。

「そうだ、ヒカル、」

父王はいい事を思いついたように手を叩いた。

「来年の大会の優勝者と結婚するというのは…」

アキラはガタッと椅子から跳ね上がり、ヒカルは仰天して声を上げる

 「おとうさんっ?」

お話の中の酔狂な王様じゃないんだから、一人娘を賞品にするなってばっ!

突っ込もうとしたとたんに王は前言撤回と両手を慌てて振った。

「いやいや、それより ヒカル、オマエが優勝者と対局して負けたらその者と結婚する、というのにしようか。」

 

たった今の勝敗結果のお陰で、アキラと顔を見合わせ、もじもじするヒカル。

「…言っとくが 勝負は水物 その塔矢の若殿が再訪されるとも決勝戦に上がってくるとも限らんよ?」

「イエ、参ります!そしてきっと勝ち進んで優勝を…」

「来年の話をすると鬼が笑うって言うらしいですなァ。東洋では。はっはっは」

 「じゃあお父さん オニ?」

「な?ゴ、ゴホン…、とにかくだね、 たとえ意に染まない相手でも、お前が負けたらその時は」

『なんてコトを!』

アキラは目を剥いた。

ホントにオニだよ…。ヒカルの頬に汗が伝う。

 

「…てな事にならぬように、必死で勉強して最強になりなさい。」

 

ヒカルは肩を叩かれ、拳を握って立ち上がった。

「お、おう!ガンバルよ!

ぜっっってェ、負けねェから!」

父は、その様子にほくそえんだ。


「それでは塔矢殿、いや、
…皆さん、来年のふれあい囲碁まつりを、お楽しみにー! ごきげんよー!」

「あなた、まだ締めには早うございますよ…!」

 

アキラはじっと義父、いや ヒカルの父を見ていた。

『 王様 こんなのほほんとした顔をしていながら、なんて狡猾な…!』

…そこに落とし所を持ってきたか…!

 

妙な相手と結婚させられては大変だと、ヒカルは必死に勉強するだろう。

そしてきっと強くなる。まだまだ大化けする予感はある。

そうなったヒカルなら、あるいはボクに勝つことがあるやもしれない。

いやそうはいくものか だがしかし、それくらい力を付けなくては万一の場合には、ヒカルが他の男のものに…!

 

…なんだか、彼が人間に生まれたら、こういう人物になるような気が……。

 

  烏帽子と狩衣姿が、アキラの脳裏を掠めたのは気のせいだろうか。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

対局が終わり、皆が口々にその戦いについて語り合うのが止むと、音楽が聞こえてきた。

皆が打ちそろってダンスを始める。

 

ヒカルは、皆から誘いの手を差し伸べられたが、戦いの後でそんな気分にはなれないと、断って王の側に座し、踊りにうち興じる人々を眺めていた。

 

…しかし芦原のガイヤルドの見事さは一体どうしたことだろう、塔矢藩一行は壁際で唖然と見守り、それ以外の者達は、やんやの喝采を浴びせた。

ヒカルもそれにはニコニコ顔で、拍手を送っていた。

「すげェなァ、あの人。」

 

その主人のアキラに視線を移すと、そんな余興も目には入っていなかった様子で

アキラはフロアの隅で真っ直ぐに立ち、こちらに顔を向けている。

 

宴を満たす和やかでくだけた空気が、そこだけぴりっと引き締まっているように見えた。

「…アキラ。」

同じフロアにいながら遠く離れた二人が見詰め合う。

 

ヒカルは椅子から腰を上げると、ドレスを軽くさばき、階段を鞠が転がるように駆け降りた。

「おい、ヒカル…?」

王様が呼び止めようとするが、王妃に制される。

「あなた、十何年も王子扱いしてきたのに、いきなり箱入り娘扱いなんて、虫が良すぎませんか?」

「娘を娘扱いして、何か悪いことでもあるかね?やっと娘らしくなったのに。」

 

死を経験して、わがままに遠慮がなくなったのかしらこの人、と王妃は思う。

 

「あの子はずっと、娘でしたよ。昨日今日、女の子らしくなったのではなくて…、少しずつ、成長していたんですよ。」

 フロアから脚が生えているかの様に突っ立ったアキラの手をとり、笑いかけるヒカルの姿を見て、母美津子はそう言った。

 

「…そうかね?私には、此処何日かで急に女の子に変身したようにしか見えないなァ。」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

城で祝賀の宴が開かれているその頃

町の広場もまた、大変に賑わっていた。

 

祭の晩と同じように、いやそれ以上の喜びにあふれて、沢山の灯りがともり、人々が祝杯を挙げている。

 

「どいたどいたー!」

広場に一頭立ての小さな馬車が駆け込んできた。

三谷が馬車から飛び降りると、手に握った書付を高々と挙げて大急ぎで駆け戻ってきた。

 

「ただいまー!情報は確かだったぜ、…ほいよ、じーさん、これで全部、結果確定だぜ!」

「ああ、すまないねェ 助かるヨ。」

広場の片隅には、ブックメーカーまでが店を広げていた。

とはいっても、どうやら払い戻しにおおわらわといった様子。

そしてたった今、お城の祝賀の宴で決勝戦の続きが打たれた、という知らせが飛び込み、その勝敗の結果で更に沸いた。

しかし一番の盛り上がりを見せたのは。

「ウオーホホホホ!」

ガマクジラの雄たけびではない。

「…お母様、ちょっと品がなさ過ぎよ、その笑い方。」

 

娘に小突かれ、ハッと我にかえって扇で口元を隠すでっぷりした貴婦人。

「あら私としたことが。…でも、気持ちいいものね、まさかこんな大当たりが来るとは思っていなかったけれど。」

「お母様の思ってた結果とも、チョット違うみたいだけどね…」

「あら智恵子、勝ちは勝ちでしょ。思ってたのと違ったって、賭けは当てたわよ。ねェ、そうでしょ?ご主人」

「え、ええ、奥様。おめでとうございまス。」

「ほーらね おほほほほほ!」

 

ブックメーカーの裏台帳で行われていた賭け、

こんなものが残っていたのをご記憶だろうか。

 

 「リボンの棋士は何者か」
 「リボンの棋士はヒカル王子の妃になるのか?」

 

結局、リボンの棋士がヒカル王子と同一人物とあてたものは会期中には現れず、賭けは親の総取りに終わった。

 

もうひとつの方の賭けは、 リボンの棋士がヒカル王子と同一人物だなどとは見破れなかったゆえに、誰もがすっかり、彼女は王子のお妃になると信じ込んで賭けてしまった。

 

リボンの棋士は王子の嫁にならない と書いたのは
一柳伯夫人 ただ一人。

 

…単に娘がリボンの棋士に負けたのがひどく悔しかったので、その腹いせにそっちにドカンと賭けたのだが

実は彼女が賭けなければこの賭けは成立していなかった。

つまり

結果的に 一人勝ちというわけだ。

 

鉄板と信じられていたからこそ、裏の分際で最も金額を集めたこの賭けは、超万馬券と化したのであった。

かくして、 一柳伯夫人は、貴族ですら大満足するほど莫大な賞金を手にしたのであった。

 

「…もう、お母様、恥ずかしいったら…。でもまあいいわ。これでお母様の機嫌も当分いいでしょうね。王家にこだわる事ももうあまりなさそうだし。」

広場にとどろく笑い声の横で、伯爵令嬢、智恵子はため息をついた。

「さて、また来年に向けて碁の勉強をしなくちゃ。」

 

特権目当てではない。智恵子は純粋に王立棋院の棋士を目指していた。

なにしろ王女も王位を継げる時代になったのだ。これからは女性が活躍しなくては。

町の碁会所も賑やかだけど、もっと高度な戦いがしてみたいものだわ。

智恵子はガマクジラの雄たけびを他所に 未来を夢見て胸を膨らませた。

 

 

。 . 。 . 。

 

 


「…まさか、もう教えてやったこと、忘れちゃったんじゃないだろうな?」

 

かつて、奥の庭で踊りの手解きをしたときのように、ヒカルはアキラの手を引き寄せた。

 

「まさか。」

 

負けず嫌いの台詞がつい口をつき、アキラはヒカルの目をキッと見つめながら、白い手袋の華奢な手を上から握りなおして、ヒカルの体を引き寄せた。

ぎこちなくしか踊れなかったはずの二人が、三度目の正直、
今度こそは阿吽の呼吸で滑らかなステップを踏み出した。

互い見交わす瞳は 微笑の中に、対局の時にも似た挑戦的な光を宿している…のはご愛嬌。

芦原はともかく、若殿様が王女様とダンスを踊っている…!


緒方はその光景に、長身をフリーズさせて、口をぽかんと開けていた。

世が世なら、唇にはりついたタバコがポロリと落ちる瞬間 かもしれない。

驚くべき光景に、踊っていた真っ最中の芦原も、壁の花を守り通していた市河も眼を瞠る。

「若様、いつの間にあんなに上手に踊れるようにおなりだったのかしら…。」

「…でも、やっぱり、色気は微塵も感じられないわねェ。」

あかりがため息をつくのを、市河は同感とばかりに苦笑して頷いた。

頭で手順を追うようなステップが、いつしか水の流れるような踊りに変わり二人の表情は自然に柔らかく和んでいく。

やがて 廻る宴の灯火を背景に、花のように笑うヒカルをとても大事そうに見つめていたアキラだったが
ヒカルを包み込む手の力を強くしてささやいた。

 

「ヒカル」

 

ぴくりとヒカルの瞳が揺れた。

ためらいがちに、しかし意を決して開かれたアキラの唇 。



「明日 出立だ。」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

夜明けの頃のはずだが、厚い雲であたりはまだ暗い。

城の廊下には朝の準備にまわる召使によって小さい灯りがともされていた。

 

外を吹く風はさほど強くはないが、冷たく、荒く削った空気の塊が混ざり、転がされているようだった。

一人、未だ薄暗い廊下を歩くアキラの前に、ドレスの上に外套をまとったヒカルが立っていた。

「今朝も乗馬? 今日は出立だと言ってたのに。」

「…日課だ。」

 

わかっていて同じ時間に起き、ここへ来たであろうヒカルに、アキラは簡潔に答えた。

二人は同じ方向に歩き出した。

「帰るんだな。」

「ああ。」

「そうだな…それがいいな。」

「ヒカル、」

アキラはヒカルに振り向いた。


「ホラ、風がつめてェ。」

外に出てすぐ、頬に手を当て、手すりの側まで歩きながらヒカルが言う。

遠くの山やなだらかな広野はうす暗くぼやけているが、それでもヒカルはその方角に指を伸ばした。

「 ぐずぐずしてると冬が来ちまうぞ。
東の陸路は北回りで、閉ざされるのが早い。

今からだって、もう南の海路で戻らなきゃ、どこかで足止め食っちまうだろうさ。」

そうしたら、来年の今頃には戻ってこられないもんな というヒカルの台詞にアキラは無言で頷いた。

…本当はそんな理由で戻るのではない。それに、一度戻ったらもう国を出ることは許されないかもしれない。

そして、お互いが自分の国の継承者になってしまったことに、強く反発する想いもあった。

だがアキラは心に決めていた。
父を説得し、再び旅に出ると。

 

ヒカルの父は、ヒカル可愛さのあまりに、次の囲碁大会は、などとアレコレ無理難題をふっかけて来たかのように感じていたが、
もしかしたら今自分の手に握るべき見えないほど細い蜘蛛の糸は、あの国王が垂らしてくれているものなのかもしれない。


「ヒカル、ボクは必ず…。」

「いっとくけど、」

隣に並んで腰に手を当てて胸を張るヒカルが、アキラに強気な笑顔を向けた。

「オレは八百長はしないぜ。」

アキラは満足げな笑みでその姿を余すところなく眺める
「わかっているとも。」

「ボクも全力で戦う。そしてきっと勝つ。」

ヒカルがおおっ、と言った後にニヤリと笑った。

「言ったな。
みてろよ、もっともっと強くなってやるから。

一度オレに勝ったからって、オマエ、勉強サボるなよ。」

へへっと笑うヒカルを

アキラは目をまん丸にして見た。

「…ボクこそ心配なんだけど?キミが佐為無しで、どれだけ強くなれるのか。」

 

「…エッ?」

 

「キミは世界の広さも知らないだろう。」

「…世界?」

「今回、この国に集まった者以上に強い棋士は世界にごろごろしている。はたして一年後、彼らがこの国に来たとして、キミは太刀打ちできるほど成長できているのだろうか?」

「…。」

 

元気に言いかえすと思ったのに黙ってしまったヒカル。

 

「…あ、いや そういう者達がこの国に来たとしても、それを倒していかなくてはいけないのは、きっとボクだ…」

「ナニ言ってんだよ。」

ヒカルはすかさず声を上げた。

「オレ、やるよ。 そういう …大会で勝つとか 誰に負けないとか そういうんじゃなくて…」

「ヒカル」

「オレが約束したのは もっともっと高いところにある 星に手を伸ばすよーな事なんだから。
一年後がどうと言うんじゃない、一生背負っていくんだって、そういう約束なんだ。


覚えてる? アキラ。

あのでっかい碁盤担いでさ、オレは誓いを立てたんだぜ。」

 

「ヒカル…。」

 

きっと強くなっているだろう。一年後のヒカルは、さらに驚くべき変化を遂げているに違いない。

そのときを思うとアキラは胸が躍った。

「…とはいっても、来年、オマエに負けたりってのだけは ねえから! 」

「…。」

アキラは白馬の手綱をぐっと握って答えた。

「望むところだ。」

 

 

 

朝霧の流れる木立を二頭の馬が走る。

 

白と黒の馬が、前になり後になりして 朝の空気を裂いて駆け抜けた。

黒馬は少しはしゃいでいたのか、ヒカルを乗せたときには足取りが軽快すぎて鞍上のヒカルをホップさせていたほどだが、
こうして二頭並んで走り出すと、まるで絡み合う風のように滑らかに脚を運んだ。

 

時々見交わす顔は、弾むように明るかった。

湿った空気は外套を重くして、冷たく荒れた風は髪を無遠慮になぶるが

それをものともせず、衣をなびかせて走った

 

再び城に戻りつつ、二人は駆ける脚を緩めながら並走する。

 

城の門が木々の間から見えてきたとき、ポツリと雨粒が落ちてきた。

その場で静かに空を見上げて、二頭の馬は立ち止まる。

ひとしきり駆けて来た馬の吐く息が白く雨の隙間を縫って立ち上り消えていく。

ヒカルがアキラに何か言おうと顔を向けると、

アキラは黙ってヒカルを見つめていた。

 

熱い馬の背から立ち上る雨の湯気が、白いベールになってアキラを包み隠していきそうだ。

言葉を紡ぐ為、薄く口を開きながら、ヒカルはマントのフードをとる。

しかし 顔を上げたときには、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。

どちらからともなく二人は静かに馬を歩み寄らせた。

二人見つめあうままに、二頭の馬がゆっくりと巴に廻る。

二頭の馬も別れを惜しむように寄り添い、背から立ち上る白い湯気が交じり合う。

 

二人の蒼褪めた頬に、無数の細かな雨粒が、冷たい針のように降り注ぐ
あたりを白く けぶらせて 静かな音であたりを包み込んでいる。

 

 

小さなメリーゴーランドのように二人は互いを追うようにゆっくりと廻り、
やがて二頭の馬が陰陽の如く絡み合い、ひたりと寄り添う。 

静かに見つめあいながら そっと近づく唇にも 冷たい針は降り注ぐ
触れ合う唇の小さな隙間から わずかに流れる白い息も 溶け合い 散って 消えていく。

二人をぬらす雨粒は静かな冷たい音がした。

 

 

氷のように冷たい雨は、秋という季節が、夏の終わりから冬の始まりに変わったことを告げていた 。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

 

外套から雨の雫を滴らせて、ヒカルは無言で歩く。

 

アキラと廊下で言葉もなく別れ、足早に部屋に戻ろうとした。

しかし、足取りはすぐに重くなる。濡れた外套が重かった。

 

そのとき

楽しそうな声が聞こえてヒカルは足を停めた。

倉田大公の部屋の前だった。

ふんふんふーん♪と声がする。鼻歌を歌っているらしい。

 

なんだろう、と思っているといきなり扉が開いた。
「「うわ!」」

扉の中と外でお互い驚きの声を上げた。

「ど、どーしたのこんな朝から?」

「しー!」

 

倉田は食料をちょろまかしたのがばれたのかと心配したと言った。

「一体ナニやってるのさ。」

 

倉田の部屋に入ってヒカルは辺りを見回した。

なにやら荷物を用意しているらしい。

 

「ん? ナニ、もう王様じゃなくなったからさ、気楽な身分になったところで、また旅にでも出ようかと思ってさ。」

 

「ふうん…。そういえば倉田さんって…」

馬好きがこうじて旅に出てったんだって聞いたよ、とヒカルが言うと、倉田はハエを払うように手を振りながら答えた。

「もう馬はやめた。これからは囲碁がオモシロイ。」
「…。」

体格に似合わず小さくまとまった荷物にさっきちょろまかしてきたらしい食料を詰め込む倉田。

「長旅ってのは、大して荷物なんか要らないもんさ。こんなふうに、な。」

 

無言で感心しているらしいヒカルに旅の極意を語って、倉田は旅の空に早くも思いを馳せた。

「こんどは囲碁の強いやつを探して旅しようと思ってるのさ。それに… 」

倉田の顔がいっそう輝いた。

 

「ラーメンも楽しみだ! 」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

 

その朝早くに、社が西の国からやって来た。

ヒカルの国に賠償金を納め謝罪する為でもあったが、アキラが帰途につくと知らせを受け、大急ぎで駆けつけたのだった。

王に正式に謁見し、書状を渡すと、

「ヒカル王女にご挨拶させて欲しい。なんといってもオレらの大恩人や」

社はヒカルの前にひざまずき、恭しく手を取る。

「や、社?ちょ、」

「だぁッ…!」
社が小声で叱咤するようにヒカルを制した。

『だまっとけや ヒカル…王女やろ。王女らしィふるまえや!』

それにコックリ頷くヒカルだが

『 ウワ でも恥ずかしい』
『アホ』

ヒカルの手に接吻する社を
「やってることと言ってることがちがわねェ?」
ヒカルがくすぐったそうに笑いながら言った。

社が立ち上がって見おろす。身長差のずいぶんある二人だ。

社は頭を垂れるように上から声をかけてきた

「そーでもせなんだら、…マジになりそうやんけ。」

「エッ?」

 

ドングリまなこで見上げてくるヒカルに、社はため息をつく

「…。ホンマややこしいやっちゃな、最初からそーゆーカッコ出来ひんのかい。」

睨み付ける社にヒカルがニッと笑う

「出来てたらどーだったんだよ?」

「言わすな ボケっ」

 

隣国のカイラシイお姫様をどうする気かなんて聞く方がどうかしとる

きっとこんなゴタゴタがなけりゃ…

とりあえず…
「…誕生日にブルワーカーは贈ってへんかったやろな。」

腹を押さえて笑いをかみ殺しているヒカルを見おろして、社は苦笑いした。

 

「ところで、オマエんち、オヤジさん大丈夫だったの?」
ヒカルが聞く。

「…あのな、そういうカッコしてる時は、もーちょっとお上品な言い方してもええねんで。」
ヒカルの男っぽさの抜けない様子にあきれる社だが、

「オマエこそ、そのコテコテのしゃべり方、王子様ってガラじゃねェよ。」
「なにゆーとんねん。これはな、立派なお国言葉やっちゅうねん。俺ゆう男のアイデンティティの確立には不可欠やろが。」
「だけどオマエんち、王様って、あまりなまってなかったよね。」
「入り婿やからな。」
「フーン。」

何の話やったっけ… 社が頭をかきながら、 脱線する前のヒカルの台詞に返事を返した。
「 けど アリガトウな、心配してくれて。
…大丈夫や。
むしろ国的なダメージでかいから、…今、攻めてこんといてくれよ。」

「ハハハ、 …そういやあ、オマエの城、大変なんじゃねェ?」
「ああ、そらもうすごいで、永夏のアホがむちゃくちゃにしていきよったからな。」
「…佐為のせいもあるかもな。」
城のてっぺんに溶岩が噴出した光景を思い出し、今度はヒカルが苦笑いする。

「ああ、今はあの城のぐるりを取り囲んでる城壁、溶岩でチョコレートコーティングみたいになっとるわ」
「なにげにウマそうだな。」
「…マァ、おかげで、城中全館 暖房効いてるで。」
「…。一冬 そのままだと助かるね。」

 

「…それから、塔矢、」

恭しく会釈する社にアキラは姿勢を正して礼を返した。

「ボク達は協力して敵を倒した、それだけのことだ。」

「…言うても、オレの国から起きたことやからな 礼も詫びも言い尽くせへん位ある。」

しばらく無言で向き合う二人。

 

「また来るんやろ?」

無言のまま、黒い瞳は真っ直ぐ射返した。

「来ぉへんようやったら オレも考えるからな

…冗談や。」

「ああすまない。つい」
「なにがついや」

社は、アキラが鍔にかけた指を離し、鯉口を再び元に戻したのを、小さな金属音を聞きながら冷や汗一筋たらして見ていた。

「イヤ、しかしまァ…お前はきっと、グウの音も出んようなまっとうなやり方で来るんやろなァ。
こんなとこで小競り合いなんかせんとな。」

「…それに彼女は、取るの取らぬのなどと云う扱いを受けて平気な相手ではない。」

いえてる、と社は苦笑した。

「本人が一番手ごわい。」

 

 

「正直を言えば、」
アキラが口を開く。

「 うらやましいよ。…遠い母国に帰るボクには 隣の国の王子という立場のキミが。」

敬う気持ちでしていることだとわかっていても、ヒカルの手に接吻する社王子の姿が胸の中を焼いている

「… あんまりうらやましィもないぞ、王女様と男同士の友情誓わされてみィ」
「…。同情したくなったよ。」

 

「あちらさんが反故にしたい言うてきたら、それはそれで歓迎するけどな。
… 冗談や。」
「こちらこそすまない。…ボクは仏じゃないので、できれば三回目は無しにしてくれないか。」
「…、わかった。」

 

…社は紳士だと思う。

侵略した上に敗戦した国、という立場だけで 遠慮をしているのではないのだろう。
晴れて王女の身で国を継ぐ資格を得たヒカルなのだ、将来、近隣の諸侯や王子と結ばれるのが普通だ。

国同士の成り行きということがあれば、たかが本人同士の交わした約束など。

 

…昨夜の間だけでも、攫っていきたいと、幾度体を衝動に突き動かされそうになったか知れない

だがそれは出来ないと アキラはその度、自分を押さえ込んだ。
帰国を決心したのだって、家臣が命をはって制止したからだけではない、
父である藩主から、なんとしても許可を得ようという思いから、そう決めたのだ。


もしかしたら二度と国から出られないかもしれない。
自分は戦死したと知らせを持たせて家来達だけを返そうか などという考えがよぎったことも否定しない。

嘘はつけなかった。
まっすぐ前を向いて生きる生き方を捨てられなかった。ただそれだけのことだ。

アキラは、自らの将来に難問が山積している事は疑いがないが、それを取り払い自分の力で望みを叶えることをが出来ると信じてもいた。

すべては再びこの国に堂々と訪れることが出来るように。

 真正面から扉を押し開いて、光を手に入れるのだ。

 

 

 

出立の時が近づき、城の前には立派な馬車が何台か用意される。
一台には旅客用、あとの荷馬車には荷物や贈り物が積み込まれ、周りを護衛の騎士が取り囲んだ。

積まれた財宝は塔矢一行への謝礼の品だった。アキラも家来達も一国を救う働きをしたお陰で、遠慮した末でこの量だ。

「ナァニ、大体は西の国からの賠償金で用意したんだ、気にするな。」
戸惑うアキラに向かってヒカルが太っ腹な発言をする。

「賠償っていうより 俺らからも謝礼やけどな、実際。」
共に見送りに来た社が苦笑いして言った。

「…アキラ、ちゃんと馬車に乗ってけよ。んなカッコつけて風邪引いたらさァ、
それこそカッコ悪いじゃん。隣町で寝込む気?」

何のことかと思いきや、白馬に乗って立ち去るべく、蓑笠を用意していた所を注意されたのだった。

馬車に乗る等と云うのが軟弱な気がしていたアキラ、別れの時くらいは格好をつけていたいものだ
… というのは 男の見栄なのだが、

陣笠に蓑をまとうのを、案山子の仮装、などと言い出すヒカルには降参するしかなく、
全員馬車に乗り込んで立ち去ることになった。

 

塔矢家一行は国王達を前に、ホールで最後の挨拶を述べている。

アキラは初めてヒカルに会った時のように、歪みの無いまっすぐないでたちで、堅苦しい挨拶をよどみなく口にし、

ヒカル曰く“紙をピシッと折って作った人形”のように静かにお辞儀した。

芦原はずいぶんと慣れた身のこなしでこちら風の挨拶を。
…きっと実践でたくさん勉強したのだろう。

対する緒方はきっと真夜中に素振り千回やって何事も無かったような顔をしているタイプなんだろう
負けず劣らず流麗な動作で恭しく会釈した。

しかし、美しい模様を描く石畳を挟んで、向こう一列に立つ王族達の中にヒカルの姿は無い。その立ち位置に一人分空間が空いている。

少し前まで普段どおりのやんちゃな口ぶりだったヒカルが、一旦入った控えの間から、ここへきて急に出られなくなったのだった。

…昨夜も、今朝も、一人で口の中で何度も復唱していたのだ。最後の挨拶を。

最後くらいは、アキラに負けないくらい きちんと言ってみせよう。

そう思って幾度も、賓客を送る時にいつも言わされるお決まりの挨拶を唱えてみたのだった。

しかし、どうしても最後まで言えない。台詞は忘れていないのに喉が詰まって口が動かなくなるのだ。

本番の今などは最悪だ。最初ッから 口が開かない。それどころか、腰が立たない。

 

「ヒカル様?皆様ご挨拶をお待ちですわ…」

そう促すあかりも内心辛そうだった。

 

長々とそうしたまま時間が過ぎ、 ついに国王が咳払いのあと一行を促した。
「…遅くなってもいけませんな、あの子の事は結構ですから、どうぞご出発くだされ。」

「しかし…」
「…若、参りましょう。」
緒方が見かねて声をかけた時

 

 ぱすん!  「ひゃあっ?!」

…控えの間のほうから奇妙な声が聞こえた気がした。

 

 

何だろう今の声は、と、その場に並んだ顔が怪訝そうに見合わせていると、


「ま、待って!」

ヒカルの叫び が王族の列の後ろから近付いて、

人一人分空いた空間をめがけて小さな人影が走りこんでくる。
やっと来たか…と振り返る王や王妃は、背後から列に駆け込むのをはしたないと咎める準備をして待っていた。

が、

ヒカルはドレスの裾をからげたまま、風のように列を駆け抜けてアキラめがけて走りこんできた。

アキラは国王達の列に近づいてもスピードを緩めないヒカルに気付き、前に歩み寄った。

 

「若…?」

緒方が呼び止めようと片手を挙げた瞬間 

美しい模様の描かれた大理石の床の上で
アキラの旅支度の黒っぽい衣装とヒカルの白いドレスがぶつかり合いつむじ風のようにくるくる回った。


「…!」

「アキラ…! 絶対また会えるよな、約束しようぜ!」
「約束?ああ、もちろん」
「サイコーのキスで…!」

驚くアキラの顔にヒカルは笑みを近付けて唇を重ねあわせた。
ヒカルの揺れる金の髪と震える睫が視界を占める。
突っ込んできたヒカルを受け止めて固まっていたアキラの手が ヒカルの背に回って、ヒカルの腕がアキラの肩にしがみつき
混じり合う様な熱い抱擁を交わした。

「ハハハ、あんなことされたんじゃ、優勝商品にならないんじゃないの?伯父さん。」
渋さに眉間を険しくする王様の横で倉田がニコニコ笑った。

「まァ、…緒方様、どうです、これでもまだ」
市河が笑みを浮かべて緒方の顔を窺った。

「フン…もし異国の姫に手を出したかと言われたら、…若から手を出したのではないと言っておくさ。 」

そう言った次の瞬間には

「…痛ぅっ!」

緒方は思わずうめいて脳天に手をやった。

キッと市河を見る。と、澄ました顔で立っている。
「どうかなされましたか?」
「いや…」

考えてみれば長身の自分の脳天に市河がゲンコツを繰り出せるわけもない…か…。しかし…?

タンコブは現実に発生し、緒方は腑に落ちぬまま首を傾げる。

…タンコブと言えば芦原を忘れるべからず。
市河とのアイコンタクトによる連係プレーは見事なものであった。
瞬時に芦原が市河をリフトし、緒方の脳天に向けて市河の拳が垂直に落ちる。
緒方の呻く隙に素早く元の位置に戻っていたのはこの場に居合わせた誰も気付かぬほどの手際よさであった。

… まあ、あまりニヒルを気取って口をきくのはやめにしようか。
そう呟く緒方を横目に 影でこっそり握手を交わす二人であった。


王妃が我が子たち二人の初々しい抱擁をニコニコと見つめていた。

『…でもどうして急に出てこられたのかしらね?』

王妃が後ろの控えの間に振り向くと戸口にあかりが立っていた

満足そうな笑みを浮かべて…手には羽箒を持っている。
王妃と目が合い、ニッコリ笑った直後、手にした羽箒にはっと気付いて恥ずかしそうに後ろに隠した。

「…お尻でも叩いたのかしら。」
王妃は肩をすくめてクスリと笑った。

「そうよ。」あかりはフン、と鼻を鳴らして胸を張った。
「あーんなに強いくせに、肝心なときに動けないなんて。どうも女の子としては初心者だから…」

女の子ってそんな、か弱いものじゃないんだから!ずぶといのよ たくましいのよ しつっこいのよ やるときゃやるのよ!
わかる?
そう言って椅子から引っ張りあげても、力が抜けて伸ばした猫のようだったヒカルに、あかりは一発、活を入れたのだった。

…まァ、ヒカルはもとがアアだから、いざって時それくらいかわいらしくてもいいかもしれないけど。

「でも、こんなときだけはね。」

 

 

。 . 。 . 。

 

 

「…さて この国ともいよいよお別れだな。」

緒方は城から一歩出て雨の空を振りあおいだ。

石造りなのにどこか暖かな印象を持つこの城は、半月ばかりの逗留ですっかり目に馴染んだと思っていたが、雨に煙り、静かにそびえたつ光景は緒方には初めて目にする姿だった。

用意万端整って、アキラはヒカルの手を離れ、車上の人となった。
雨に濡れるフードを掲げ、見上げて微笑んだヒカルの頬は、秋雨のせいか蒼く冷たそうだった。
「キミこそ 濡れてはいけない。」
「アキラ」

見上げるヒカルの瞳も涙で濡れている

「約束する、なんとしても、ボクは」
「もういい」

ヒカルの声にアキラは驚いて声を途切れさせた。

「もう約束は したじゃないか、同じ約束を何度も口にするなよ アキラ。」

笑顔で見送ろうとするヒカルだが、涙のお陰で鼻声になってしまい、うつむいた。

静かに馬車が動き出した 。

「ヒカル!忘れないでくれ!ボクらは離れていても…!」

雨の音と、重い蹄や車輪の回る馬車の音は、アキラの声の邪魔をする。

しかしヒカルは知っている。アキラが何を言ったのか。
「同じ道を…」
ヒカルは顔を上げて大きく手を振った。

「ずっと同じ道だ!アキラ ―――――!!」

 

 

雨に、そしてまた、涙に濡れた顔を、ヒカルはかまいもしないで大きく手を振り続けた。

塔矢一行の姿が門の向こうに消え、あかりがハンカチをもってお城に入るように促すまで、ずっとそうしていた。

 

うつむいて城の中に入ろうとした時、雨の音に混じって厩舎から黒い愛馬のいななきが聞こえた。

 

ヒカルはうすぼんやりとその声に振り向いて…何を考えているのか、幾度かまばたきをしていた。

 

 

馬車は森の中、ぬかるんだ道を慎重に進んでいた。

 

「雨脚は弱くなってまいりましたし このぶんなら日没までには南の商業都市までたどり着けるでしょう。」

よろしゅうございましたな、と、道案内の御者が明るい声で言って来た。

申し訳程度に笑みを返すアキラだが、

「…ごめんなさい。」
どうしても塞ぎこんでしまい、窓の外を見るばかりだった。

 

…たしかに雲が明るくなってきた。
雨の音もさっきヒカルと別れた時ほどには強くはない。

そう、ついに別れてしまった。

「ヒカル…」
…我ながら未練たらしいと思う。
あれだけ長々と別れを惜しんだのにまだ。
いや、 満足いく別れなんて存在しない。
別れたくはないのだから 。


森深く、両側を藪の茂った土手に挟まれた道は、小雨のぱらつく悪天候も手伝って少し薄暗かった。

 

秋の冷たい雨風が、森の匂いを溶かして流れ込む。

雨に打たれて散った薄紫のひとひらが、アキラの手に舞い降りた。

 

リボンの棋士 …ヒカルと二人きりで、 月とかすかな灯火を頼りに歩いた夜
森の小道を、頭上から枝垂れる花々が甘い香りで満たしていた。

月蝕の夜も ヒカルを死へと追いやる忌まわしい魔法の災禍に、森は恐れおののく様にざわめいて、その香りを森の中に渦巻かせていた。

 

「……すみません! 止めてください!」
「どうしました若!?」

アキラはいまだ動いている馬車の扉を押し開き、
「日向!」
叫ぶとすかさず並走していた白馬がアキラのそばに駆け寄る。

濡れた愛馬の鞍を片袖でざっとなぎ払い、ひらりと跨ると
合図 一声、白馬はいななきとともに前足を高々と掲げ、矢のように駆けた。

 

「若様!」


白馬の手綱を振るい、ぬかるむ道を全速で駆ける。

月光にふるえて切なく甘い香りを吐き出していた花が

秋雨に打たれたひとときのうちに、

薄紫に散り敷いて、森の小道を一面に染めている。

 

『こんな意地の悪い仕打ちがあるか

…こんな、甘い思い出に浸りながら馬車に揺られていくなんて、…できるもんか…』

 

 雨に濡れて高い梢から花びらが散り、白馬の濡れたたてがみにもからみつく。

「…くっ…」 

胸の底が疼く。

この森も花も 木々の間に小さく見えるあの湖も、リボンの棋士、ヒカルの面影が間近にまといつくような錯覚を起こさせる。

アキラから切ない思い出を引きずり出して、優しく、しかし容赦なく翻弄しようとしているかのようだ。

 

 アキラは振り払うように馬の手綱をふるい、白馬は散り敷いた花のじゅうたんを蹄で蹴立てて走る。

森の道はうねりながら小高い丘の頂に向かっている。駆け上がれば、背後には遠くヒカルの城が見えるだろう

… そしてその先は もう…。

 


その時、道の脇に続く小高い藪の向こうから影が駆け抜けて近づいてきた。

高い土手に花咲く木立を突き抜け、 ザッ!という音とともに、黒い影は勢いよく躍り出た。

 

「なに!?」

驚くアキラの頭上を、大きな黒い影が飛び越える。

 

…馬!?

アキラを飛び越え、土手の上から道に跳び降りたのは、黒い馬に乗った旅の騎士だった。

蹄と馬具の音が着地と共にけたたましく響いた。

 

小さくまとめた荷物を積んだ黒馬が着地の勢いで小走りに回り、
徐々に足を踏み鳴らすのを鞍上からなだめ、騎士は雨よけのマントを軽く捌いてゆっくり振り向いた。

 

「キミは…」

黒い仮面をつけた若い騎士は、いたずらっぽく笑いながら、着地で少々ずれた帽子をグイ、と被り直した。

帽子の中から金色の前髪がこぼれる。

「キミはッ…!」
「人呼んでリボンの…」

エート  と、ひとこと入れてこう答えた。
「…棋士。」

「ヒカル!」

白馬にまたがるアキラをしげしげ眺めて訊ねた。

「こんな雨ん中元気だな!…まだ早駆けし足りねェの?おサムライさん。」

「ヒカル?どうしたんだその格好は」

ん?とヒカルは小首をかしげた。

「…聞いた所によるとさァ…世界は広いんだってな?」

大会に来るよりずっと強い打ち手もゴロゴロいるんだって? ヒカルはワクワクするように、ニッと笑う。

 

「もしかして、…一緒に来るのか?」

「エ?…さァ、どーしよーかな。」
「ヒカル!?」

 

「あんまりぐずぐずしていると冬になっちまうって言ったろ? …オレも急ぐんだ。なにしろ…」

チラ、と今来た方を遠目に見た。

「飛び出してきちゃったもんで。」

 

「なっ?!」

 

「それじゃお先に!またどこかで会おうな!」
「ヒカル!待て!」

馬の胴に蹴りを入れて、ヒカルは弾丸のように駆け出した。

「待つ?そんな必要ねェだろ!オマエも言ったじゃんか、道は同じだって!」

黒馬の騎士は、ぬかるみの道を駆け抜けた。

 花筏を浮かべる小川を飛び越え、舞い散る花びらも雨のしずくとともに、翻すマントから振り落とし、
やがて木立が切れ、広い野原を見渡す丘にたつと、広野の上を南に続く街道とその上に広がる空を眺めた。


雨はいつの間にかやみ、雲の切れ間から青空がのぞき、陽の光の帯が天に続く道のように幾本も地上に降りている。


その光景を見ながら、大きく胸に息を吸い込むと、 雨よけの帽子を脱いで金色の髪を風にさらした。
片手に持った帽子を強く振り払って雫を落とすと鞍に挟み込み、マントの中から、軽い大きな帽子を取り出して被り直した。

「ヤッパこのカッコじゃないと落ち着かないって言うか、自分らしくなくってダメだなァ。ウン。」

 

後ろから蹄の音と、聞きなれた声が聞こえる。

「やっと追いついたってよ、おっせえな。」
黒馬と顔を見合わせて笑いあっている。 かのように見えた。

 

 今抜けてきた森の向こうに城の尖塔がほんの小さく見えるのを、チラリと横目で見送ると、雨よけのマントを勢いよく捲り上げて

「いくぜナチグロ!」

言葉が通じるかのように大きくいなないて、黒馬はたかだかと前足を掲げると、一気に丘を駆け下りた。

 

雨に濡れて輝く緑の野は、駆け抜ける馬の足元で光る雨粒を散らす。

 

帽子に飾った大きなリボンをなびかせて
リボンの棋士は、遠く広野の果てに輝く青い空に、まだ見知らぬ国々に続いているであろう、大海原へと思いを馳せた。

 

 


おしまい