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ヒカ碁二次創作のお話置き場です(ヒカル少女化注意)

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リボンの棋士 55

 

 

 

暗い部屋の中にはアキラただ一人。

 


アキラの足元には、ヒカルの投げつけた王冠が転がっている。
だが
アキラの目はもう なにも映していない。

 


。 . 。 . 。

 

 

まっ白い佐為の袖の中から開放されて、ヒカルはまぶしさに目を慣らそうと目をこすった。

「ア、アレ ココは…」
何かの間違いじゃないか?
ヒカルは見慣れた 秘密の部屋の真ん中に立って、キョロキョロと見回す。

 


「さあ、ヒカル!一局打ちましょう!」
「エ…?」


佐為は、碁盤の向こうにニコニコ顔で正座して、扇子で手招きをした。

 


 ゴキ

 

「なっ ナニが一局だよ!アキラが アキラが死にそうだってのに、碁なんか打ってられっか!」

ヒカルのフックが佐為のテンプルに入った。

 

「碁なんか だなんてひどい…。」
クラクラとしながら佐為は扇子でこめかみをさすった。

「ヒドイのはオマエだ!
…って、ア、いや、打つ、打つよ、オマエが望むのなら何だってする、だけど、それより先に!

…アキラを、アキラを助けて!
あのままじゃ死んじゃうよ! 頼むよ、早く…!

そうしたら、碁でも何でも 何局だって何千局だって相手してやるからっ!

お願いだよ、佐為!」

 

佐為を見下ろして怒鳴り散らしていたヒカルは、余裕のない語調になった。膝をつき、佐為の肩をガクガク揺さぶって訴える。

 

佐為の胸元に、ヒカルの涙が染み込んだ。

「― 本当にこのまま 私と一緒に行く覚悟は出来ていると?」
コクリと頷くヒカル。

 

「本当に?」

佐為の問いにヒカルが顔を上げると、佐為は向こうの壁を見つめていた。

それにつられてヒカルも同じ方を向く。

その先にある壁を透かして 小さくアキラの姿が見えた。

 

「…アキラ!」

床に蹲るアキラは微動だにしない。

 

ヒカルは佐為の胸を手で押しやり、立ち上がると、アキラに向かって歩を進めた。 

佐為から離れた瞬間にアキラの姿が消え、そこにはただの壁しか見えない。

驚いて立ちすくむヒカルの背後から、佐為がそっとヒカルの肩に手を置いた。

再び壁の向こうにアキラの姿が見えた。
驚いて振り向くヒカルは佐為の小さく頷く顔と見合わせると、この映像は、佐為が見せてくれていたものなのだ と気付き、再び正面に顔を向けた。

「…動いてな…い…」
ヒカルは震える声で呟いた。

「…大丈夫、まだ息があります。」
「でも…?」
「忘れていませんか?ここは外界とは時間の流れ方が違うんですよ。」
「ア…。」

ヒカルが碁を打てるようになる為に、アキラと戦う為に、佐為が施した時間の魔法はまだ生きていた。

この部屋から見る外界は、時間が止まったかと思うほど、ものがゆっくり動いて見える事をヒカルは思い出した。

「じゃあアキラは、…でもやっぱり早く何とか、」

ヒカルの言葉を遮って、目の前を白い布が素早く横切る。
佐為がさっと袖をひと振りしたのだ。

何が起きたのかはわからないが、次の瞬間には、アキラを包み込むように何処からともなく光が湧いた。


その光が血塗れた瀕死のアキラの姿をみるみる浄化していく。

「……!」

ヒカルは、アキラの怪我が癒されていくのを、安堵と喜びの表情で見つめていた。
「……アキ…ラ…」
強張った肩が安堵ですとんと降り、深いため息をついた。

「…ヒカル。」
佐為の声に我に返る。

少し俯いて 再び顔を上げながら、ヒカルは肩をゆっくりと後ろに向けた。

名残り惜しくアキラの姿を見つめながら 最後に顔を振り向かせると、
ヒカルは 佐為に向かってゆっくり手を伸ばした。

 

「ウン… 約束だ、 佐為。」


佐為はそれに応えてふんわりと微笑む。さっきの力のせいだろうか、佐為は白く光を帯びていた。

暖かく 明るく 真っ白な光に包まれるヒカル。

その穏やかで懐かしい光は頭の中にまでしみとおっていくようで
…まるで何もかも忘れてしまいそうになる…

目を閉じながらヒカルは呟く。
頭の中がふわふわと 白い雲に包まれていく

  ― だけど ―

このまま天上に連れて行かれるんだろうか

  ― だけど 天上で碁を打つことになったって ―

それとも 魂だけが消えて抜け殻のような自分が取り残されてしまうのだろうか…。

 ― 何もかも忘れてしまったとしても―

  ―  忘れない 
     アキラのことだけは忘れない


    アキラ 
    オレは…オマエに近づきたくて 
    それで 
    碁を… ―

『 でもこれからだってアキラと碁を打ちたいでしょ。』

ヒカルの心の声に応えて佐為がささやいた。

その声に、ヒカルは溶けてしまいそうになる意識の、ほんのかけらをあつめる様にして応えた。

「そ…そりゃあ… だけど…約束だから 覚悟はできてる…オマエにオレの魂を…」

佐為はしばらく黙っていた。

そっと頭を撫でられて、ヒカルは、
ああ、いよいよか…

 

と思ったその時、
頭上から不意に聞こえたのは、佐為のクスッという笑い声だった。

「バカですねえ ヒカル。そんなもの持って帰れる訳ないでしょ。
今、あなたの体にある、それはあなたの魂です。 

私が持って帰らなくてはならないものは もうありません。

私の地上での役目は、もうとっくに終わってるのですよ。」


「…………へ?」


「じゃ、じゃあ……」

さっきまで光に浸食され眠そうに閉じかけていたヒカルの眼はいまや驚きでまん丸く見開いていた。

「じゃあ…えーと…
… 倉田さんのを持ってっちゃうの?」

佐為が取り返す使命を帯びていたのは自分の体に入っていたという「囲碁で大成する男の魂」。それは今、倉田の太い体に宿っている。

 

佐為は微笑んで首を振った。

「由来がどうであれ、ひとつしか魂を持ってない人から魂を奪って抜け殻にすることは天の使いとしては出来ません。」

佐為の理屈に初耳だと首を傾げるヒカル。

「あなたが魂の抜け殻だった倉田大公に魂を与えてしまったことで、私が出来ることはなくなってしまったんです。」

 

「与えたわけじゃあないけど…。」

 

「あなたの体に宿る魂だって、いまやひとつきりですよ。」

「ウ、ウン…」

「倉田大公の魂も、あなたの魂も、どっちも持って帰るわけにはいかないんです。ましてや今あなたの体に宿っているのはもともとのあなたの魂ですからね。持っていったりなんて、しませんよ。」

ヒカルが一つ余計に持っている魂を持ち帰る それが役目だったのに。

 

 ミッション失敗ってことか

ヒカルはぼんやりそんな単語が頭に浮かんだ。

「私ね、 あの後すぐに、天に呼び戻されちゃったんですよ。」
「え?あのあとって…あの…エート、丘の上で消えちゃったとき?」

佐為はコックリ頷いた。

「もうお役目は終わったと言われてしまって…。天のお父様に散々対局させられちゃってもう大変でした。」

 

「それって、おしおき?…にしちゃ楽しそうだよな。…てかオレたちが大変なのに碁打ってたんだ。」

「いえあの、大変、だったでしょうが、天界は…原則的に下界の者同士のいざこざは…あまり見てないし手も出さないんです……よ…。
あ、これでもヒカルが心配になって、で、また舞い戻ってきたんですよっ。

それに打っていたと言ってもあなたたちから見ればほんの…それはマア置いておきましょう。」

ヒカルは佐為の言い訳を聞きながら、放心した顔でへたりと座り込んでいた。

今さっきまで固めていた覚悟が無になってしまい、力が抜けてしまったのだ。

佐為はその前に座って、ヒカルの手をとった。

「ヒカル。」
「…んなぁ…?」
声まで脱力して佐為を見上げる。

 

佐為はその顔を見て、思わず笑った。

 

「…オマエな。」
「ア、イエ、失礼。」

そういいながら顔中に満ちた笑みを消そうともしない佐為だった。

「あのねヒカル、
私 天に帰って あなたに初めて会った時の事を思い出しましたよ。」

 

「初めてって ここで…」

「イエ 天界で」

「天界で?  ……オレと?」
佐為が頷く。

 

「言いましたでしょ?生まれる前のあなたに「囲碁で大成する男の魂」を渡したって
…その時のことをです。」

「生まれる前…?」

 

佐為はニッコリ頷いた。

「この子だ!って思ったんです。 神様から預かって、宝物の様に大事にしていた、その魂を、ぜひ上げたいって」

ヒカルは唐突に聞かされる佐為の昔話、その言葉の面映さに妙に居心地悪そうな笑みを浮かべた。

「どこがどうなの?魂のない生まれる前の赤ん坊、なんて、全然想像つかないや。
タダのお人形みたいなのじゃあないの?」

「みんな違いますよ 色も艶も匂いも」
「果物かよ。」

佐為が笑った。

「…ええ そうですね みんなかわいい果物みたいです。

たとえて言うなら、あなたは金のリンゴみたいに真ん丸くて輝いて見えましたっけね。
天から地上に送り出すのが惜しくなってしまいました。 

あんまり惜しくて でも 送り出さなくてはいけなくて それで…
…あの魂を あなたに与えてしまったのです。
私は、…あなたが大好きになってしまったんですよ。」

 

「そ……。」
ヒカルは驚きのあまり、どんぐりまなこのままカッチリ固まった。

佐為は、瞳に慈愛をたたえてヒカルに微笑みかける。

ヒカルは、瞬きも息も忘れてそれを見つめた。

佐為は、ヒカルに穏やかな微笑みを降り注ぎ

ヒカルは…

「…って、チョット待って!ヤバイよ佐為っ!オマエそんなこと言ったらまた力を失…」
 
「だけど、それがそもそものうっかりだったんですよねえ…。」
佐為は一人呟いて扇子を額に当て、慌てていたヒカルは、その途端、どたりとコケた。

 

「ウ、ウッカリってなんだよ…!」
「だって、あなたはすでに魂を受け取ってたのですもの。」

出来ればその役目を私がしたかったものですよ、佐為は少し不満げに言うが、囲碁しかとりえのない窓際天使がそういう時だけ勤労意欲に燃えたところで望むお役目にはあたらないものである。

 

なんか今さっき、すごい告白を聴いたような気がしてたのは 空耳だったのかな… 
ヒカルは頭を掻いた。

 

「…ああ、心配してくれたのですね?ヒカル」
「だって…」

「大丈夫ですよ、あなたのことを好きだからって 力を失うわけじゃあありません」

「……そうなの?」

「そうですよ。
そもそも力を取り戻した時だって、あなたが好きな気持ちが消えたんじゃあないんですからね。」

「…そ、そーなのか。えーと…じゃあなんで」

 

「好きと言う気持ちにも、色々あると云う事です。」

 

そう聞かされても、きょとんとするヒカルに、佐為はニッコリ笑いかけるだけだった。

ヒカルも自分にはむずかしくてわかんないと思われてるな、と癪だったけれど

 

「…まあいいや。佐為が大丈夫って言うんだから大丈夫なんだろ。…なんとなくだけど オマエ、前より成長したような気もするしな。」

「おや!わかりますか?」

佐為は意外そうにヒカルを見た。
「実は天界での等級も一つ昇段したんですよ。苦労はするものですね。」

「ハ ハハ…そう。そりゃオメデト。」

 

「あなたも成長したようですしね。」

「そうかな?」

「二つあった魂がひとつになって 不安だったでしょ?」
「ああ…いつの間にか慣れちゃったな。」
「早いですねー。」

 

佐為はヒカルの体から魂が二つとも出てきたときの光景を思い返した。
全く外見の同じ魂。

「あなたの魂は…もともとは真ッさらの魂だったのですが 少々器が大きいといいましょうか、

毛が生えてるといいましょうか(ぼそっ)」

「ナニ?」

 

「イエなんでも。

それがいつの間にやら… そう、まるで、囲碁で大成する女の魂 とでも言いましょうかね」

「…へェ・エエ??」

「 見た目殆んど変わりがなくなってしまうほど、「囲碁で大成する男の魂」と同化してましたね。」
「オレ見てない…」
「そりゃ見てないでしょうよ…。」

「でもそれでよくわかったな、オレの魂が、どっちかなんて。」

 

「いえ、それはアキラ殿が…。」

…そう、アキラは、どちらがヒカルの魂か気付いたのですね。…

…人ながら たいしたものですね。

佐為は微かに笑んだまま視線を横に流しながらポツリと呟いた。

「そうしたら…アキラの魂ってどうなんだろ?アイツだって…」

「…知りたいですか?」

「ウン…ああいや イイや。アキラを見てればなんとなくわかる。」
「…そうですね。」
佐為は小さく頷いた。

「とてもとても 強い魂の持ち主ですよ。
…彼をこの世に送り出したのは、遠い国の神々なのですがね
アキラ殿は並々ならぬ運命を背負って生きていかれるのでしょう…。」

 

ヒカルはフーン、といいながら、アキラを待ち受ける未来を慮った。

「…支えてやりてえな。」

「あなたを食い殺すかもしれませんよ。」

「イ?
食…て… 
ア、… ご …碁でか?」

 

佐為は扇子を口元に寄せながらすまなそうに笑った。

「…マダマダあなたたちの未来には何かありそうな気がします。」

 

「なんだ、わかんないで言ってたのかよ。…そーゆー肝心な事がわかんないのが役に立たないんだよなァ。」

 

「すいません。」
なにやら含んだように微笑んだまま、そう答える佐為であった。 

「でも、ヒカル、…」

 

「じゃああの…」

ヒカルは少々困惑した顔で佐為に訊ねた。

「オレを つれてかなくて…いいの?」

「連れて行って欲しいんですか?」


ヒカルは思い切り首を振り、即座に壁に目を向ける。
その視線の先にアキラの姿があった。

さっきよりは弱くなってはいたが、まだ光は静かに、床に倒れるアキラを取り巻いて、ゆっくりとゆっくりと癒し続けていた。

「でも…なにか、お返しはしなくちゃと思うし、人一人の命を助けてもらったのに…」

「やはり成長しましたね。」
「エ?」

「だって、私が今まで手助けをしてきても、あなたったら一度もお返し、なんて」

 

ガク。

「なんだよ オレそーとーズーズーしいヤツみたいじゃん。」

 

まさにそうですよ。 

佐為は心の中で即座に答えた。

 

 

が、ふと何か思いついたように声を上げた。

「そうでした、もしも、あなたがなにか、お礼にしたいことがあるというのなら
私からのお願いを聞いていただけませんか?」

 

「お願い?」

佐為は柔らかく微笑んでヒカルを見つめた。

 

 

「いいよ …ナニ?」

「何でもいいですか?」

「う… ウ、ウン。なんでも イイぜ… 。ナンだよお願いって。」

身構えるヒカルを、佐為は愛おしそうに見て
扇子の端を口元に寄せつつ頷いた。 


「生きなさい。」


「……佐為、」
「命ある限り生きなさい。

生きて生きて 悔いの無いよう生き抜いて、 

その後でいつか 天国で、私とまた会いましょう。

私とあなたは必ず会える 
…けれども それは 一番後回しでよいのですよ

私と会うのはあなたの人生の一番最後にとっておきなさい。」

 

「…さ…」
「あのねえヒカル、」

佐為はヒカルの頬をなで、顔をゆっくり近づけた。

困惑した表情のヒカルを見下ろす佐為の顔は、相変わらず柔らかに微笑んでいたが、
すこしばかり眼が茶目っ気を含んで瞬いた。


「知ってますか?人間の死亡率は、100%なんですよ。」
「しぼーりつ」
ヒカルは思わずわき腹を
「いえ体脂肪率じゃなくて 死亡率。
人間誰でも死ぬんです。あなただって、いずれはね。」

「……ウン…。」

「ですから、あなたとはいずれ、天で会うことになりますとも。」
「天で?」

こっくり頷く佐為

「ええ、必ず。 …あなたが ヘンな悪さしなければね。」

地獄に行くような事がないかそれだけが心配です。さも悲しそうに袖で目元を覆う佐為

「ヒデェ。」
ヒカルの台詞に、冗談だと、佐為は再び笑いかけた。

「そんなわけですから、天の住人の私が 何を焦って今すぐあなたを連れ去る必要があるものですか。」

それに

「 魂を取引になんか使ったら、私、今度こそ堕天使です。」
佐為は扇子を口元に寄せて笑った。

「笑ってそんなコエエ事、さらっと言うなよ。…なァんだ、そーか ハハハ…」

「あ、その時までに、もっともっと囲碁の腕前を磨いておいてくださいね
あまり未熟な腕で私に会いに来られては困ります。」

笑わせようとして言ってるのではなかった。なにしろ佐為の目は真剣だ。

 

さすが囲碁バカ天使。

 

しかしヒカルは、佐為を見上げて素直に頷いた。

「わかった。
じゃあ…、オマエを負かしちゃうくらい、強くなればいいんだね?」

「なんですと?
私に勝つつもりで?」

佐為の目がキランと光る。

「あなたねえ、そこまでに一体どれだけかかると思ってるんです。何百年生きる気ですか一体… 
イエ、いいでしょう、せいぜい精進なさい。
私に負けないように… 

 

…いえ、

 

神にも届くくらいに…。」


「神の…

一っ…。」

ヒカルは、ああ、と呟き、やっと笑みに晴れやかなものを取り戻した。
道は ひとつなのか。

「ウン、
わかったよ 佐為

いつか天に召されるその日までオレは 生きて生きて
ずっとずっと高いところを目指して行くよ。
それでいいんだね? 」

「簡単に言うけれど、ヒカル、生きていく間にはいろんなことがありますよ。

喜びや 幸せ 大切な何かを得ることもあるでしょう

いろんなものをも喪うでしょう
友や 家族や

自分自身も」

 

「大丈夫!」

ヒカルは身軽に立ち上がった

 

「それでもやめない オレは 生きることも 打つこともやめない。」

 

佐為が微笑んだ
「それが約束できるなら …」

そう言いかけて、佐為は、以前ヒカルと交わした会話を思い出し笑顔を深くした。
「そう そうでした
あなたはずっと前に そう約束してくれたのでしたっけね
ずっと最初の頃に。 」


「…ソウ?だっけ?」

「― 「神の一手を目指す」 ― と …。」

頷く佐為の周りにふわりと光の粒が舞い踊る

 

「アアうれしいです 幸せです 楽しみがひとつ増えました。とても大きな楽しみが。」
柔らかな光は、驚くヒカルの回りにも舞い散る。

自分を照らす小さな光の粒たちの行方に目をきょろきょろさせながら、ヒカルは笑みを浮かべた。

「では私は、あなたと再び会うその時が来るまで、空の上から、その魂が地上で育っていくのを見守りましょう。」

「きっと、」
ヒカルは佐為に頷いてみせ、改めて約束を交わす。
「きっとさ、
オマエに今度会うときは、ここにあるのは正真正銘、「囲碁で大成する女の魂」 だぜ。」

「オヤ、頼もしいですねえ!」

 

ヒカルは佐為にニッコリ笑いかけると

「ねえ、打とう!佐為、一緒に打とう!

…あっ! そうだ!」
いい事を思いついたとばかりに身を翻し

「…アキラを連れてくる!もう、治ってるんだよね?!
そういや、オマエもオレも アイツとちゃんと打ってないよな?だから…」

 

「あ、ヒカル!」

 

ヒカルは部屋の扉にむかって駆け出した。
「と、 そうだ。」

 

ヒカルは再び佐為に駆け寄って、抱きついた。

 

「まだお礼を言ってなかった!
佐為

…ありがとう!」

ヒカルは満面の笑顔を佐為に近づけて、うんと嬉しそうにキスをした。

 

「…エヘヘ、天使とキスしちゃった。」

「ヒ、ヒ、ヒカル…」

「待っててよ!」

 

驚いて床に座り込んだ佐為をその場に残して、ヒカルはぴょんと弾むように駆けて行き、バタン!と扉の派手な音を残して階段を降りて行った。

 

「な、な、なんと せわしないですね… 
少しは大きくなったと思ったのに これじゃここで会った時から全く変わっていないじゃありませんか。…ホントに成長してくれるのでしょうか。」

ふっと笑みを浮かべて佐為は呟いた。

「待ってて ですか。

ええ、お待ちしていますとも。」

 

忘れないで下さいよ

あなたと私は 必ず会える 

  いつか…

 

 

 

「アハハハ…!」
ヒカルは照れの勢いで腕を振り回しながら 、螺旋の階段を飛ぶように駆け下りた。

「…なんて言ってる場合じゃないな、急がなくちゃ!」
ここを飛び出したら時間の流れは元通りになる。

前に一度、アキラの姿を眺め続け、話がしたいと部屋を飛び出したのに、その場に着いたときにはもう彼の姿がなかった、そんな事があった。

それがヒカルを余計に急かせた。

ヒカルは喜び勇んで駆け下りる。
階段を降りきる前に、ヒカルの足がもつれて転げそうになる。

「…ッ!?」
すんでの所で手すりにしがみついて、なんとか転ばずにすんだ。
しかし、下半身は上体を支えきれずにガクガクと膝が折れ、その場にかがみこむ。

「ハハ、膝が笑ってら。今頃、足に来たのかな…。」

前髪を息で吹き上げて、笑いながら体のあちこちを撫でさすると、ゆっくり腰を上げた。

休む間もなく襲い掛かってきた幾多の危機を乗り越え、最後の最後の窮地を脱し、そして何もかもがめでたく収まりかけている今、疲れ知らずの活躍を続けてきたヒカルの体にも限界が来たようだ。

 

それまで、休み無く動き回っていた体は、危機が去って力が抜けたら、もう、どうやって力を入れたらいいのかわからなかった。
今ひとつ腰がキマらず、ぐらぐらと揺れながら壁を支えに残りの階段をゆっくり降りた。

「なんだコレ。こんなにうまく動けないってコトあるのかな…。ああ、オレ もう ヘトヘトなんじゃん…。」

壁に手をついて、フラフラ ヨロヨロ と歩きながら、激しい疲労に色濃く染まったヒカルの表情は、しかし明るかった。

 

もう、必死で戦う事はないんだ。

敵は消えた。

みんな助かった。

そしてアキラも

「死なないで 済んだんだ…」

笑んだまま、うつむいて噛み締めた唇に ひとすじ涙が伝った。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

 あの部屋からは長々とアキラを取り巻いていたように見えていた光は、実際には一瞬で消えた。

佐為とのやりとりだって、外界から見ればほんのわずかの時間の出来事だっただろう。

 階段を降り、壁から手を離せないまま、アキラの倒れている部屋を覗いた。

薄暗い空間の奥に、白っぽい人影が見える。

 

「?」

奥に見える人影は確かにアキラのはずだ。

なのになんだか木偶がたてかけてあるような、妙な印象がアキラらしくなさ過ぎた。

 

嫌な動悸がする。

 

ヒカルは何かを見間違えているのかと目を凝らしながら近づいた。

 

果たして 、それは確かに床に足を投げ出したアキラだった。

「…アキラ?」
呼びかけるが、反応がない。

 

まさか?
ヒカルはびくりと顔を震わせた。

 

「アキラ!」
転げそうな勢いで駆け寄る。

「ど、どーしたんだよ?治ったんじゃないの?!」
ヒカルはアキラの肩を掴んで大声で呼びかけた。

 

遠い東の異国の服は、ボタンも無く、胸もとが大きく開いている。
ヒカルはそこから手を探り入れて、 彼の胸に、背中に、けがをしていたあちこちにと手を伸ばしてまさぐった。

確かに傷は消えている。

心臓だって、確かに動いている。息だってしている。

衣服は元のまま汚れてボロだったが、怪我があったとは思えない全くの無傷の体に、最悪の想像ははずれて、ホッと息をついた。

 

しかし、
酷く顔色が悪い。

触れる肌は、いつも自分より熱いのに、今はひゅんと冷えている。

今まで見たこともない、暗く、弛緩した表情に、ヒカルは不安を募らせた。
「ア、アキラ…。」

青白い頬に手を伸ばす
「オイ…生きてるんだろ?
しっかりしろ 目を覚ませ
いつもオレに怒鳴ってたじゃないか
しっかりしろって 自分を…
… えーと、えーと、 …なんだっけ?
いつも早口で小難しいコト言ってたじゃないか…。
体は治ったはずなのにどうして?」

アキラの反応は、ない。

「…なんだよ  どういうことだよ 

どうなってるんだよ… アキラ…、」

かすかに首を振りながら、ヒカルはアキラの冷たい髪を指で櫛削り、青白い頬や光のない目元を撫でていく。

「なあ、
怒鳴ってみろよ、いつものキッツイ眼で睨んでみろってば、そっけないコト言ってそっぽ向いたって良いんだ
いつものオマエはドコ行っちゃったんだよ!」

 

生きているはずなのに、どうして反応しないんだよ。

ぐったり力の抜けた体、泥みたいな目の色…

こんなアキラ アキラじゃない…。

どーしたら、オマエ…

蒼褪めた、力無い唇に、ヒカルは指を伸ばした。
触れていても、ピクリともしない。

生きてるのに どこもかしこも…なんでこんなに冷たいんだ?…

何の反応も無い。
自分 の息だけが、不安で次第に荒くなるのが聞こえた。

「眼が覚めるなら 何でもしてやる!アキラ、起きろ!ボケてるなんてオマエらしくないぞ!」

 

なあ… どうして返事しないんだ…。

 

 

佐為!」
ヒカルは上を仰いで怒鳴った。

「約束が違うよ!アキラを元に戻せってば!
言う事きかないと、 コッチにだって考えがあるんだッ!
このままアキラを見殺しにしてみろ!約束なんか破っちゃうぞ!
…オレも死んでやる!悪いこといっぱいやって 地獄に落ちてやるからなっ!」

何も無い空間に向けた叫び声は、辺りに低く響いただけで 消えた。

「聞いてるのかよ!
 …佐為ィ! 佐為のバカ! ボケナス!

 …もう、どうにかならないのかよ!」


ヒカルは心も体も力尽きていて、
大声で叫んだ後は、がっくりとうなだれた首を持ち上げることも出来なくなった。

『このままなのかな… このまま もうどうしようもないのかな…』

そんな考えがとてつもない後悔の念と共に押し寄せて、心を凍てつかせる。

 

「アキラ  オマエは遠い国の若様なんだから… オマエの未来ってのがあるから…
どうしても言えなかった事があるんだ

ホントは 言いたくて…
胸の中に押し込めるのはオレの性分じゃないけど…でも…。

 

言えなかった。


それって オマエもそうだったんだよな…

オマエは…それでもちゃんと 言ってくれたっけ。


だけど、こんな…目の前にいるのに何も届かないなんて

一体ドコが壊れちゃったんだよ?」

言えなかったコト 、それがもう届きもしないなんて、ヤダ!
…言うぞ、手遅れでも オレは言う!


「アキラ、愛してる。大好きなんてもんじゃナイ、
一緒に、ずっと一緒に生きたいんだ!
オマエのコト知りたい、もっと教えてよ…!
オマエの望み、何でもきくよ、なんだってやる。
オレを好きにして……イイから目を覚ませ ! アキラのクソバカヤロー!」

 

ヒカルの手を更に上から 一回り大きな手が覆った。

「!?」

 

うつむいていたヒカルが思わず眼を瞠りアキラの顔を見た。
さっきまでどんよりとしていたアキラの眼が、今まさに光を取り戻して瞬いた。

「…ひ、

ひかる…っ!」

震えた声で、口の動きも鈍くて、いつものアキラとは思えない珍妙な噛みようだったが
確かにアキラが声を

 

「アキ…!…っ…!」

ヒカルが驚きに声を上げる間もなく、

アキラは必死の形相で両手の先に触れたヒカルの衣服の端を掴み
溺れる者が手に触れたものを必死で縋る様にヒカルをたぐり寄せてかき抱いた。

 

「いッ…、いくな・行くな・行くな、…行っちゃダメだ!」

今まで死んだように静かだったアキラの息は、水から上がってきたかと思うほど、息切れするほどに激しかった。

 

― 絶望の極みで、こころが体の内に閉じこもるような状態に陥ったアキラ。

…だがヒカルの声がした。もう何も見えない何も聞こえない そんな状態のなかで突然心の中にまで伝わってきたヒカルの声は、あろうことか、

佐為を呼んでいる…!

アキラは反射的にその声に追いすがり
目を覚ましたのだった。

そう、アキラの時間はほんのわずかしかたっていない。アキラにとってはヒカルが佐為に連れ去られたその数秒、数十秒の後でしかなかった。


佐為のところへなど行かないでくれ!ボクならどうなってもいい!ヒカル、離れるな…!」
「うぐえ…っ どっからこんな力が…」
頬擦りしながら ヒカルの肋骨がしなる程にきつく抱きしめ、体のあちこちをまさぐる
「あたたかい… ヒカル、本当にヒカル?キミなのか?…幻では…」
髪に五指を差し入れて、頭の形を、温もりを確かめるように探り、髪や肌の香りを深く吸い込んだ。

二人で身を寄せ合って敵に対峙していた、その時感じた温もり 匂い 感触 息づかい
まさにそれと同じと確信が得られても なかなか信じられないと、
幾度も腕の中の存在を確かめる。

今度はアキラがヒカルに、ついさっきヒカルに無抵抗でされていたのと同じ行動を、いやその3倍は猛烈な勢いでとっていた。

「苦しい…ってば、痛いよアキラ!」
アキラの腕の中でヒカルは身をよじる。
抵抗してはいるが、願いが通じてよみがえったアキラの力強さが嬉しくて、その表情は痛みを訴えながらも笑顔に満ちていた。。

「本当にキミ?幻でも 夢でもないのか?」
「オレだよオレ!」
「オレだよオレじゃわからない、本当にキミは…」
「ヒカルだ!」
 ― そういう詐欺が横行するのはまだまだ何百年も先の話である。…もとい。(ごめんなさいもうしません)

アキラはようやくその腕の力を弱めて、ヒカルを見回した
「でもたった今キミは…そうだ、消えて…彼と…」

「たった今… ウン、そうだよ 行って 戻ってきた。」

「信じられない…何故だ?だって、この体から傷が消えたのに…!キミがその代償になったんじゃ、」
「…代償は、要らないって、オレの魂なんか 要らないってさ。」

「 そんなことが…?まさか… 」

愛らしく微笑むヒカルの頬を撫でながら、胸に沁みる眼差しにまぶしさを感じ、その存在に確信を得ながらもまだ信じられないとアキラは呟いた。

「まさか幻じゃないのか」
「…幻じゃねえよ バカ!」

「バ…
…キミこそバカじゃないか!!!」
「なんだとォ!?」

アキラはヒカルを睨み付けた。
「ボクの怪我など、放っといてくれればいいんだ!佐為の力など借りるな!ましてや、キミの魂と引き換えになど、」

「あのなァ、オマエが死んじゃったらどうしようもないだろ!」
「そんなこと覚悟の上!」

「オ・レ・が・どうしよーもねえっつってんだよ!バカ!」
「何度もバカと」

「バカバカバカバカバ…」
「バで終わったら意味が変わるぞ。」
「…カ!」
息を継いで、やけくそで怒鳴る。


肩で息をしながら、二人は睨み合った。

 

「ボクが、キミの犠牲でこの命を永らえるなど、そんなこと 断じて受け入れられるものか…!」 

「オレがオマエの事 どんなに大事だって思ってるのか わかってて言ってんのか! 」

「だからと言って…!」
言い返す途中で言葉が途切れ、

アキラの目から怒りが消えた。
「 ……、 ヒカル…、初耳だ。」

同時に、ヒカルはアキラがいつもどおりの説教をたれている事が嬉しくて

「…オマエらしいかたっくるしい台詞だな…!」
と、実に晴々と笑いながら、アキラのひたいを小突いた。

「おかえり アキラ」

「…?それはボクのセリフだよ…。
おかえり ヒカル。」

 虚を突かれてまばたきするアキラに、ヒカルは腕をアキラの肩に伸ばして、きゅうと抱きしめた。

 

「さっきはどうなるかと思った 一生、お前と口きけないかと思って ゾッとしたんだぞ…!」

「ヒカル… 」

 

「初耳だって?このヤロー、
全然聞いてなかったな?さっきから散々言ってんだぞ…」

「え…」
「教えてやろうか、
オレの胸ン中は…、ずっと オマエで…アキラでイッパイだ。」

「ヒカル…」
「見せてやりてェよ  キットビックリするぜ。」
アキラは、ヒカルの言葉に 瞠る眼がゆれて 潤んだ。

 

「さっき…二人で一緒に戦ってただろ… 

あんとき、実は 楽しかったんだ 死にそうで苦しくて
なのに アキラとひとつになったみたいな あの感じが …ゾクゾクした。 」

「ボクもだ…。」

 

「なあ、オレ、オマエをこんな風に抱きしめていいんだろうか?
なんていったらいいんだろ、
ソンケーしちゃってるんだよ 
もう もう、大好きなんだ…。」

ヒカルの泣きそうな笑顔にアキラは頭の中が真っ白に眩んだ
甘い思いをどうやってつたえてやろうという思いだけに支配された体が
ヒカルに絡みつき、唇を封じて離さない。

ヒカルもまた 自らを与えたいという想いが体を融かし
甘い雨になって アキラに降り注いでいく
そんな眩暈にも似た幸福感が、情熱に任せた口づけに 満ちていた。


やがて、ヒカルに抱かれているような己が姿に気付き、アキラはふと我に返る。
「…情けない話だ 武士とあろうものが」
そんな言葉がつい口をついて出た。

― それに…これが ただならぬ恋だとはわかっている
ボクの人生に予定されてなどいない恋だと ―

「よけーな事言わなくてイイから」

ヒカルは上から柔らかく包み込むように、アキラの頭を胸に深く抱えこんだ。

 

 

「遠慮しなくていいんだ
ココはオマエの場所だから」

 

アキラは胸の中いっぱいの熱い息を、笑みと共に吐き出すのを心地よく感じていた。

彼はヒカルの胸の中で 生まれて初めてなくらい幸せなため息をついた。

他人同士の肌が、ひたり、と吸い付く 愛する人と触れ合う事がこんなに安らかなものなのか

アキラは包まれるような喜びにひたる自分自身に驚きすら感じていた。

 

予定されていない…それでもこれは必然だ

アキラは願望じゃなく、そう確信する自分を見つけた。

再び見上げてくるアキラをヒカルは噛み締めるような笑顔で迎え、

二人で成し遂げたことを噛み締めて、見つめ合い、そして笑った。

 アキラはようやく体を起こす。

力が抜けていた事が嘘のように 羽のように軽く体が起き上がった。

 

お互いを真っ直ぐに見つめ合いながら、ヒカルはそっとアキラの顔に手を伸ばした。
その頬を撫でながら、アキラの眼差しに吸い寄せられるように見惚れた。
きつく睨みつける様でもなくただ真っ直ぐに見つめるアキラの眼
穏やかで真っ直ぐで 涼やかで 淡く暖かい

ヒカルの脳裏に何度も浮かんだアキラの表情が甦る




あのときの

初めて会ったときに向けられた真っ直ぐな眼差し
オレは取り戻せたんだろうか
オマエの眼差しを

 

 

いや、あの時とは違う。

 

あのときよりずっと
体の底が融けそうな…


うっとり見つめるヒカルと アキラの距離はゆっくりと近づいていった

「だけど…」
突然ヒカルが呟いてうつむく。

「 だけど  なに?」
心配そうにアキラが訊ねてきた。

 

再び上げられたヒカルの顔は、なにやら不満げだ。

 

 

「ズルイよお前ばっかりキレイになって…。
オレ、こんなドロドロじゃん…。」

そう呟いて顔をそらせた。

 

 

「…え?」
アキラはきょとんと瞬きをしてヒカルを見つめた

 

「だから…見るなってば…!」

 

傷やあざだらけで、くたくたに疲れきった体のヒカル 
まるで新品のように疲れのない体のアキラ

 

それをヒカルが気にしていると云う事に気付くと、アキラは笑みを深くして、顔を背けたヒカルを抱きしめた。

「綺麗だよ ヒカル 今のキミは綺麗だ、嘘じゃない
…ボクはむしろ 自分の体から君を守った証が消えてしまって その事が恨めしくさえあるけれど…。」

 

しかしヒカルの頑なな態度はやわらがない。

 

「そ、それに…」

「それに?」

 

ぴとん

 

雫の音が静かな室内に響いた。

 


「…ココは…場所的にチョット…。」

 

ヒカルが顔を背けたままじっと見つめるものがあった。

 

「エ……… あ。」

つられて同じ方に顔を向けたアキラ。

その視線の先に立ち並ぶのは、すがすがしく彩られた美しい…

 

 

 

朝顔」の列だった。

 

 

。 . 。 . 。

 

 

ヒカルの「秘密の部屋」に続く階段を 二人は肩を支えあいながら、一段一段昇る。 

支えあう、といっても実際は、

 

「ウワ」

「大丈夫か?」

時折足を滑らせるヒカルをアキラはそのたび支え、抱き起こす。

 

「ダイ…ジョー…ブ…、」

 

ずり落ちた頭上の冠をなおしながら、そう答えるヒカルだが、まるで体に力が入っていない。
なのに強がって、抱きかかえようとするアキラを遮る。

二人並んで歩く事をやめようとしないヒカルを、アキラは黙って肩で支えた。

「…この上に隠し部屋が?」

ヒカルは頷いた。 
「オマエにだけは…見せてやるよ、オレの秘密の…部屋を。」 

 

 

どういう部屋なのか、アキラはヒカルに聞かされたが、即座に理解しがたいものだった。
佐為の力が ヒカルの願い ― 一晩に百局、千局でも打ちたい ― などというものを叶えたとは。

しかし、アキラには納得がいく答えでもあった。

ヒカルに抱いていた謎が 少なくとも説明がつくからだ。

「オレは、オマエに出会ってから、…もう、 ずっとずっとオマエのことばかり考えて
ずっとずっと 長い時間を過ごしてきたんだ。
あの部屋で…
それこそ何日も 何ヶ月も 。

 …オマエはオレと会って、たいして日がないだろ?」

「…それは ここに来たのが二週間ほど前のことだからね。」

「へん、おれなんかもう1年くらい、オマエのことを考えて
碁の勉強だってしてたんだぞ。」

変に威張ったような口調なのは何故なのだろう。

「一晩に何日分もの時間を過ごすことが出来る…。それが…部屋の秘密?」

「そう ヘボなオレが どうして一週間くらいで 強くなったか、」

「男みたいだったキミが急に綺麗になった理由もそこにある?」

「い…!?」

 

…自分では気付いてないの?  アキラはそう言いたげに小首をかしげた。

 

「キミと会ったときは…もっと幼かった。

リボンの棋士だってそうだ。愛らしい、だけど只者じゃない少女だと、はじめから思っていたけれど…

勝ち進むたびに棋力も容姿も目の前で蕾が花開くように激的に変わっていく。

“ヒカル王子”も同じように大人びて、ボクの中で、だんだんリボンの棋士と印象が重なっていく。
それを、どう整理していいか、混乱したものだ。

 

ボクは目が離せなかった。」

 

「…。そ、そうだったのか?」

「大胆なウチコミ、繊細な布石…」

碁か。

「アハハ、そりゃ佐為仕込みだからな。」

 

 

「いや 碁よりもなによりも、可憐で謎めいた…キミ自身が気になってしょうがなかった。」

「オッ、オ・オマ…エ…」

顔を真っ赤に染めてガクリと腰の抜けたヒカルを抱きしめるアキラ。

そのまま抱えあげようとすると、ヒカルは力いっぱい首を振った。

 

「や、やめろってば!
オレはそういうのガラじゃないって…!」

一旦は言い分を聞き入れて、肩を支えながら自分の横に立たせるが、カクンと膝が折れるばかりのヒカルに

 

アキラは、
「観念し給え」

一言いうと、さっと ヒカルの腰をすくい上げて、抱きかかえた。

「だから…!」

「キミが歩けるのなら、もちろんそうしてもらう。
 歩けないのだから、抱えた。それだけだよ。」

「…う…
 それじゃ オマエが歩けなくなったら、オレが抱っこしてやるからな。」


アキラは一瞬想像したのか、実に不味そうな表情で、横目で睨んだ。

「………もしそういうことがあれば、ね。」

 

 

 

抱きかかえられ、アキラの腕にゆられて階段を昇っていくのは、正直非常に照れくさかったが
徐々に、身の置き所に困るような想いの中に快さが満たされていくのを感じて、アキラを見上げてはにかんだ。

 

ヒカルは、ほんの少しだけ、アキラに聞かせてみたくなった。

息を胸の中に一杯溜めて
かすかな、震える声を、 熱い息と一緒に
― アキラ ずっとオマエが欲しかったんだ…。―

アキラは足を止め、ため息混じりにつぶやいた。

 

「…どうしよう 困ったな」

「ダメか ヤッパ。」
「いや、そうじゃない…

もう どうにも 辛抱堪らなくなったんだ。」

「し…」

「とても愛しいよ、なんて可憐なんだろう、…キミは本当に可愛い人だ…」

「な な な ナニ…ウソくさいセリフを立て続けに言いやがッ…」

「本当だよ。」

「眼は大丈夫か?」

「…」

 

あっけに取られたような顔のあと ニッコリと無邪気に笑った。
「勿論。」

 

疲れすぎると、心臓が、危ないほどに動悸が激しくなる。
ヒカルはただでさえ疲れで胸が痛むのに、アキラのお陰で今にも心臓が破けやしないか、と心配でしようがない。

「イテテ… 心臓、止まっちゃったらオマエのせーだかんな…」

 

照れ隠しの粗暴な言い回しなんかアキラにはお見通しで、さらりと受け流すような涼しい笑顔を返される。

 

ヒカルの不安げにうっすらと開いた目に映るのは、アキラの秀でた眉に長い睫。

アキラの伏目がちのまつげに小さく揺れる光が
ヒカルの唇や顎の滑らかな形、自分に抱かれて照れたような困ったような表情をいとおしそうに見回しているのだとわかる。

 

ヒカルの濡れた睫の奥で 赤く潤んだ瞳は甘く痺れる毒に浸された様に瞬く。
ヒカルはアキラと触れ合う場所が熔けてしまえばいいという程に身を強く摺り寄せる
もう何もかもアキラに委ねる
二人は目を固く閉じて、お互いの骨が軋む程に強く抱擁を交わした。

ボタンのない なめらかな手触りの衣に頬を寄せて
胸元から 首筋に 黒髪に指をくぐらせ

ヒカルの華奢な手がアキラの頬を包んで
唇を吸った

まるで 甘い水が体中に降り注いで
しみこんで行き
内側に満たされて
頑なにいたものが音もなく崩れていくようで

『オレは オマエが
こんなに しょうがないくらい…』

キュウ、と鳴くような声を喉の奥からさせて
ヒカルはアキラの頭を抱いた。

 

その拍子にヒカルの頭上から王冠が滑り、階段を音を立てて転がって落ちていく

「あ、」

アキラが階段の下へと消えていく王冠を眼で追いヒカルを見た。

ヒカルは慌てる様子も無く、笑って首を振った。

「いいよあんなの。」

「しかし」

「今  必要なモンじゃないさ…。」

そのとろりと溶けそうな微笑みに

アキラは体中の血が逆巻くような感覚に襲われた。

煮えたぎった血で、自分の脳髄が焼き切れてしまいそうだ。

ボクの体が 血潮が ヒカルを抱えて包み込む 
この流れが停まってしまうその時まで
ずっと君の周りで巡っていたい

もうどうしようもないくらいのお互いの想いが再び重ねた唇の中で交じり合う。

 


長い長い口づけの後、二人はお互いの睫が触れ合うほどに瞳を寄せ合って
恥ずかしそうに微笑みあった。

 


どういうわけなのか、いままで簡単だった筈の お互いの名前を呼び合うことさえ
不意に勇気のいる行為と化してしまう。

意を決して、一度呼ぶたびに、胸の中に楔が打ち込まれる思いがする。

そのたび、ますます離れられなくなる。

それが怖くさえあるのに、それでも、名を呼ぶたびに体を走る甘い刺激が、それをやめる事を許さない。



アキラはいとおしそうにヒカルに語りかけた。

「教えてほしい 今までのことを…
いや、 
それよりも

これからを共有する事が重要だ。」

「オレたちの これからか…」

ヒカルがいたずらっぽく笑って手を差し出した。
アキラの目の前で人差し指と中指を重ねてみせる。

 

このあたりの普通の者なら、幸運を祈る仕草かと思うところだが。

アキラはそれを見て一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑みを浮かべた。
「まずは…… 
一局 打とうか?」

「…やっぱ碁打ちだな…!」
そう言ってヒカルが笑う。

冗談半分で示した指なのに 乗ってこられるとは。

「…いいぜ、 …アノ続きを打つ? それとも 最初から?」

「どちらでも。」

そう、すまして答えたはいいが アキラはどうしても言わずにいられなくなった。

 

「ヒカル ボクは 本当は…」
階段を上がりきり、扉の前に立ったアキラは腕の中のヒカルにゆっくりと口付ける。

今だけ名を捨てたい

続けて言おうとした言葉を想いに変えて 唇を密に合わせた。

頬を涼やかな黒髪に撫でられながら交わす口づけに、ヒカルはうっとり目を閉じた。

静かに離れた唇に じんとした痺れを感じながら、
ヒカルは目を閉じたまま小さく頷き、ささやくように言った。

「行こう アキラ

…そう…

この扉の中…秘密の部屋で…

  …佐為 も    …待ってるんだ…。」

ヒカルの言葉にアキラの体は強張り、動きが止まった。


問いただそうとする目が 全身を走る戦慄で 鋭さを帯びた。
ヒカルにとって大切な存在のその名前は アキラにとっては…。

一方ヒカルは、瞼をゆるりと降ろしたまま小さく笑みを浮かべてアキラの胸に頬を預けている。

しばらく見おろしていたアキラだが、

佐為…。  そうか 彼が…。』

その安心しきったヒカルの表情に、今更何も問うまい、そう考えた。

なすべき事を選択したアキラは 迷うことなく顔を上げて正面を見据える。

 

秘密の部屋の扉を前に、強大な相手を迎え撃つべく、彼の表情はみるみるキリキリと殺気を増した。

 

アキラはヒカルを抱いたまま木の扉に手をかけると、ゆっくりと押し開いた。

 




いつの間にか夜になっていたのを、この部屋に訪れてはじめて知った。

天窓から降り注ぐ月の光で あたりは青白く静かに照らされている。

 

しかし、佐為が待ってるとヒカルは言っていたのに、あれほど目立つ姿もない筈の人影は、この薄汚れた部屋の中には見当たらない。

 


「…佐為 殿…?」

勇気を出してその名を呼んでみた。しかし返事はない。

やや拍子抜けして、それでも油断ない目つきでアキラは辺りを見回した。

部屋の片隅に置かれた碁盤に目がとまる。

初めてヒカルと会ったときに、彼女が高々と持ち上げて(たいした力だ)神の一手を目指すと宣言したときの、そしてそのあと初めて手合わせしたときの あの碁盤だ。

「…? なんだろう…?」
アキラには目の錯覚かも、と思われた。

月の光に照らされているにしては、その碁盤だけがほんのりと明るく、蒼さの無い、清らかな白さに包まれて見える。

その上を小さな光の粒が舞い、真っ直ぐ立ち昇りながら消えていく。

光に導かれるように顔をあげると、丸い天窓が眼に映った。

窓によって円く切り取られた空には、白く輝く半月が見える。

あのときからずっと 月なんか見ていなかったな… 満月だった月はもう半分に欠けている。

アキラはそう思いながら見上げた空に 不思議な姿を見つけて眼を瞠った。

時間が止まっていることを教えてくれているのか、半月のそば空高くには、 秋の渡り鳥が秩序正しく隊列を組み、翼を広げて飛ぶ姿がぽっかりと浮かんでいた。

アキラは驚きに目を大きく瞠ってそれらを見つめた。この部屋は時間が止まったように感じるところだと聞いてはいたが、こうしてそれを目の当たりにしても、とても信じられない。

 

「あれは本物なのか?ヒカル!?」

腕の中を見下ろして訊ねた。

 

しかし


ヒカルは答えてくれなかった。

 

「…ぐー。」

「……… ヒカ………。」

 

アキラの腕をゆりかごに、幸福感を睡眠薬に、ヒカルのヘトヘトの体はついに睡魔に屈したのだろう。

いつの間にか、ヒカルは幸せそうな顔でぐっすり眠っていた。

アキラは、青白く照らされたヒカルの寝顔を見つめ、

その名を最後まで呼び終えるまでに声をなくした口をゆっくり閉じると 深いため息をついた。

 



ヒカルを抱いたまま その場にゆっくりと座り込む。

佐為に癒されて怪我も無く、元気のみなぎった体のアキラは眠くもなんともなかったが、疲労困憊極限のヒカルはもう当分起きそうも無い。

彼女の事を思えば、疲れが癒えるまで無理に起こそうという気は無かったが、

アキラは改めて佐為に恨み言を言いたくなった。

 

『天に背くつもりは無いが しかし佐為殿 
いや 佐為、ヒカルを大事に思うならどうして彼女を癒してやらなかったのですか。』

 

… もしや 。

 

さりげない意地悪だろうか。それとも、…結果ヒカルが疲れを癒せない事まで勝手に慮ったのだろうか…

いや 考えるまい なんといっても彼は天の使い。これが ヒカルにとって最善なのだろう。そう考えることにしよう。

 

アキラは果てしなく邪推し続けてしまいそうになる自分に喝を入れた。

そうだ、こんな荒れた部屋で彼女を穢すことがなくてよかった と思っておこう。

眉をひそめてアキラはこの部屋の荒れようを見回していた。

 

ヒカルが隣国に向かった後も、この部屋の時間は流れ続けていたのだろう。

ここは、ヒカルがずっと過ごしていたというにはあまりにも寂れ、一年以上放置された、物置部屋にしか見えなかった。

天窓から降り注ぐ月光

それだけがこの部屋の中では清らかで美しい存在だった。

月の輝きは、眠るヒカルの頬を白く照らし、蒼い影を作り出している。

ヒカル自身が困り果てるほど汚れた姿も、月のひかりは清く照らしていた。

自分の腕の中にあるその姿を、アキラは飽かずに眺め、そっと頬にかかる髪をかき上げた。

…かつては死の魔法をも砕いた熱い口づけも どうやら、睡魔には勝てない事がアキラにはわかった。

 

 

 

 

朝までこのままなのだろうか。

 

…はたしてこの部屋はいつ朝が来るのだろう?

 

再び見上げた円く切り取られた空には、相変わらず、月をバックにくの字に編隊を組む黒い影が浮かんでいた。

不思議な光景だ。  見上げながらため息をつく。

 

そのアキラのため息からは、さっきまでの熱さが消し飛んでいた。

丸い窓に向かって最後の小さな光の粒が立ち上っていくのを目で追う。

「あれはなんなのだろう…」

変わった光景に目をそらせないではいたが、こんな不思議な空間で、理解の及ばない事をいちいち追求する気にはなれなかった。

そのとき

碁盤から淡い光が音もなくひいていったのに気付き、驚いて顔を碁盤に向ける。

佐為…殿か…?」

警戒をあらわにして碁盤を睨む。

 

しかし、佐為の気配らしきものがしたのはそれきりで いくら待てども、返事はかえって来ない。

 

警戒してこわばった肩から徐々に力を抜き、やがてアキラは

 

 

佐為殿、」

痺れを切らしたように口を開く。

「貴方が大変な打ち手である事は認めます。
ボクにとっても、貴方と打つことがこの上ない誘惑である事は確か…。

 

しかし、正直言ってヒカルを巡る嫉妬ばかりが心を占め、まともに打てる自信が無い。」

 

アキラは問われるでもなく語りだした。

「笑ってください。
ボクは愚かだ。

貴方は天の使いでボクはただの地上の人間だ、

どうあがいても、貴方の前では玩具を取り上げられた赤子も同然に泣くしかないのだろうと…

それを認めるしかないのに。…」

 

 

「ヒカルを連れて行かないでほしい ボクを助けた代償ならば ボクが贖う」

 

「腕を片方 足を両ともに  目や耳だって一方失う事は覚悟できても、
… ヒカルと囲碁を一方でも手放す事は出来ないなんて…
こんなに欲の深い自分が天上に行く事はないだろう…。

それでも 願いが聞き入れられるなら、
ヒカルを地上に置いて欲しい。 高き所ではなく 此処に置いて欲しいのだ

ボクとて神の一手を目指す志で生きている 

その道をヒカルと共に歩むのが 願いなんだといったら 欲張りだろうか…」

腕の中のヒカルが身じろぎした。


目を覚ましたわけではないが、見下ろすヒカルの寝顔に浮かぶ、あまりに無垢な微笑みにアキラは胸を疼かせる。佐為の夢を見ているのかも 唇を噛みもするが、
幸せそうに眠りながら、頬にかかるアキラの広い袖を握って、ヒカルは小さく呟いた。

アキラの名を。

「…ヒカル…。」

 

自分一人が恐れをなしている間に ヒカルは ボクの夢をみて笑っているのか

佐為が君を奪っていくなどと邪推するのはやめにしろとでも 云ってるみたいだな キミは。

かくりと肩から力の抜けたアキラは、ただヒカルの寝顔を眺めるばかりで、眼に入っていなかったが

その頭上に浮かんでいた最後の光の粒が

しばらくして、その輝きも 静かにゆっくりと

消えうせた。

その直後、それまで空に浮いていた鳥の群れは、
絵画が命を吹き込まれたかのように、突如、羽ばたく黒い矢と化し月影を横切って飛び去った。

部屋の床にたたずむ二人とも、それに気付きはしなかったが。

 

 

まんじりともせずアキラはヒカルの寝顔を見守る。
時折、ヒカルが身を柔らかく捩る度に抱えなおし、そのたび、思いつめたような顔を横に振った。
けしからん思いをどうにかせねば、と辺りを見回す。
古びた部屋の中には、碁盤以外にもヒカルがこの部屋で過ごした痕跡を認める事が出来た。

しかしどれもが煤けて、色褪せ、周りの棚に並んだ古道具と同化する勢いである。

周りの時が止まって見えるということは この部屋だけ早く時間が経ってしまうという事か。
アキラは、改めてそのことを考えていた。

この国に来てまだひと月ほど。
初めて会ったときに比べると ヒカルはずいぶん大人びて見える そう思えたのはもはや気のせいではない事を知ったアキラ。


見下ろすヒカルの姿は、いまはふんわりとした巻き毛のかつらも可憐なドレスも無い。
おまけに戦いに次ぐ戦いで、汗臭いわ泥まみれだわ傷だらけだわ男の衣装もぼろぼろで…
もしもヒカルが目を覚ましていたらこんな風にまじまじと、つぶさに観察されることを断固拒否するだろう。

だが リボンの棋士と名乗って自分の前に突如花の様に現れたあの時よりも
今の姿のほうがずっとたおやかで成熟した美しさを宿している様に思えた。

自分よりも一枝高いところにたたずんで微笑みかけてくるような印象に、アキラはこう思った。

もしかしたら ボクよりほんのすこし大人になってしまったのかもしれないな…

 

精神年齢はともかく。

 

 

「ヒカル、キミが佐為の力を借りたのは ボクの為だと言ったね。

キミはあれから長い時間をずっと 今までボクのために生きてきたとそう思ってもいいのかな…」

その返事はまだ眠りから覚めないヒカルから聞くことは出来ない。

目覚めていたら 自分のささやきを聞いてヒカルはどんな顔をするのだろう。

あらぬ方向に想像をめぐらせるのはヒカルを粗末に扱うようで自分でも許せないが
ただその寝顔を愛でる事ぐらいは許されていいのではないか

 

そんな思いを胸の中にぐろぐろと渦巻かせているうちに長い夜は過ぎていった。


やがて 心が休む事を欲したのか アキラもほんのすこしうとうととしだした。

 

アキラの頭に声がした。

― 魂は、地上でこそ育つもの。いつか、成長したその腕を見せていただくのを楽しみにしていますよ。

アキラ殿、

お任せします。 ヒカルの心と貴方の信念に ―

 

 

「やはりっ! 佐為…!」

声にギクリと反応すると、腕の中のヒカルを覆い隠すように抱きしめて、アキラは佐為の姿を探した。

眠っていた頭と目と耳をたたき起こして回りに何か気配が無いか探ろうとした。

 

 

すると、意外なほど様々な気配が目にも耳にも飛び込んでくる。

あたりは部屋の隅まで見渡せるほどに、ほの明るく、

外から鳥の声が聞こえてくる。

 

この部屋は、時間が止まっているのではなかったか?

 

見上げた小さな空は、ほんのりラベンダーの色に染まり、小鳥たちが短い翼を忙しなく

羽ばたかせて飛び交う姿が見えた。

 

『時間が…ながれている?』

ヒカルが言っていたようなとてつもなく長い時間が過ぎたのだろうか、それとも佐為の魔法が消えたのか。

 

魔法が消えたというのなら
それは佐為がいなくなったということだ。

「まさか…」

アキラは さっき聞こえた佐為の声を思い出す。

― 魂は、地上でこそ育つもの。… ―

佐為殿、もしや 」

アキラは、佐為が自分に伝えた言葉を ようやく咀嚼して飲み込んだ気がした。

それは ヒカルの居場所は天上ではなく…

 

 

そのとき、
身じろぐヒカルの喉の奥で、小さなうめき声がする。

それだけでも アキラはドキリと胸が弾んだ。

「…あ、アキラ…」

ヒカルは目をこすって体を起こした。

 

「 おはよ。」
「お、おはよう。」

 

我ながら間抜けだとは思いつつ、無邪気なヒカルにあわせてアキラは朝の挨拶を交わす。


頭を掻きながら辺りを見回すヒカルは、ここが継承者の間だということに気付いた。

「…… この部屋で朝まで過ごしたって …まさか 何日分寝てたんだろ?」

ヒカルはガバリと起きた。

 

「たったの一晩さ。」

「だってココは…」

外とは違う、と言い返すヒカルの耳にも外から小鳥のさえずりが聞こえ、

 

「エッ?!」
ヒカルは驚いて窓を見上げた。

キョロキョロと見回していたかと思うと急いで立ち上がり
木箱を飛び上がって、片手を突き上げるように窓を開けた。

「ヒカル?」

一晩ヒカルに提供したお陰で、強張った脚がなかなかいうことを聞かないが、アキラもその後を追う。

ヒカルが腕を突っ張って窓を押し開くその格好で固まっている。そのすぐ横にアキラが頭を並べた。

小さな窓に二つの頭がでると、大層窮屈だった。

 

 

あたりは明るい秋晴れの空がひろがり 爽やかな風が吹き抜けた。

もう、10月も上旬を過ぎようというこの時期らしく、朝の空気はひんやり気持ちがよかった。

 

「…風が吹いてる。」
そんな当たり前のことに驚くヒカル。

「時間が止まっていた時は、風は無かったんだね?」
「ウン…、じゃあ…解けちゃったってことなのか…?」
「多分ね。」
佐為は?」
「消えたよ。きっと今度は本当に」
「ウソ!」
「うそかどうかはともかく中にはもう…ウワッ、よ、せっ!」

 

佐為佐為ー!」

一瞬頭を部屋に引っ込めて中を見回していたヒカル、今度はちいさな天窓から上半身をねじり出し、腕を突っ張って屋根に出ようとする。その腰がアキラの首を絞めた。

「ぐッ…よ、よせと言うのが…ッ!」

かまわず、夢中で這い出して、屋根の上に突っ立ったヒカルは、上空を見回した。

「ほんっとに…魔法が消えたの?佐為も…?うわっと!」
急な傾斜の屋根の上でバランスを崩し、後を追って来たアキラに抱きとめられる。

「全くキミは…!お転婆にも程がある!」
「ム!お転婆ァ?」

そんなこと言われた事ない、と頬を膨らませた。

もっとも王子と名乗って来たのならそう呼ばれたことなどなくて当然だ。

 

「こんな所から落ちたら命が無いだろう!見たまえ!」
ヒカルは足元を見た。

そこは城でも一番高い塔。その最上階から突き出た、他所から這い上がることなど出来ない尖塔の屋根の上だ。

爽やかな朝の風が足元を冷やして吹き抜けた。

「ひあああああっ」

今更慌てたヒカルの足元から小鳥が群れを成して飛び立った。

「危ないっ!」
滑る両足を慌てて踏み鳴らすヒカルを捕まえ、アキラは踏ん張るが、まだ足腰の痺れは消えておらず、共にバランスを崩してしまい、おまけに急な傾斜の屋根の上で草履の緒がブツリと切れる。

「ウワッ!」


とっさにヒカルは尖塔の真ん中に立つ金属の支柱に手を伸ばした。しっかり握ったその支柱のおかげで、何とか二人は滑落を免れた。

「あっぶねえな、大丈夫か?」

「……!」

そもそもヒカルの軽はずみのせいなのにまるで自分が助けられてしまったようじゃないか、とアキラはヒカルに抱きかかえられてムッとしていた。

それを見てぷっと吹き出しそうなヒカルの手元に、ギイッ と低い軋みが伝わった。

「イ!?」

古い金属の棒が、錆びて折れてしまうのだろうか?慌てて冷や汗がでた。が、

支柱は青い錆だらけではあったけれども、しっかり二人を支えていた。

 

しかしギイギイという軋みはいまだに支柱から手に伝わってくる。見上げると、支柱の先には風見鶏が。

さび付いて長い間動かなくなっていたらしき風見鶏は、ヒカルが乱暴に握ったせいでか、ようやく風の向きが変わった事を知って、ゆっくり西を向いていく。

 

風見鶏に引っかかっていた朱い木の葉が一枚、

その拍子にはずれて、風に舞い上げられながら空高く飛んで行った。

 

「あ…。」

佐為は、朝が来る前に天上に帰ってしまったのだろう。

だが、木の葉を見上げる二人は、それを佐為の帰っていく姿のように黙って見送った。

小さな乾いた木の葉は、ほうきで掃いたような薄い雲の空を高く舞いあがり、山の向こうから昇ってきた朝日の光の中に消えていった。

 

 

 


やがてヒカルが口を開いて、

 

佐為、オレは…」

アキラがハッとヒカルの横顔を見る。

「この地上で、 死ぬまで、死ぬまで…
生きるから!」

 

「…それは… 。」

当たり前では、と突っ込むのも躊躇していたアキラだがヒカルは続けて晴れやかに言った。

 

「神の一手に続く道をさ…!」

なァ!
と、ヒカルはアキラに笑いかけた。

アキラは真ん丸く見開いた目でヒカルを見つめていた。

「ああ…!」

 

やがて実に嬉しそうに笑った。

「ああ、ボクもまさにその道を目指す覚悟だ。」

 

「頼むぜ なにしろ
…碁は一人じゃムリだ。 」

クスリと笑う二人。

 

 

その時足元で ガチャガチャと音がした。

「今度はナニ?」

屋根の上で抱きあったまま足元の窓から中を見下ろす二人。

 

部屋の中に転がり込むのは

「あー!いたいた!」

「く、倉田さん?」

「あの、倉田さん、ココは継承者の間…。」

塔矢家の若様にもその資格はないはずだが、
倉田がこの部屋に入る資格はないはずなのに、とヒカルが不思議に思うと

 

「ウン ホラ、合鍵。」

太い指にちんまりつままれた金の鍵が示される。

 

「オレ、今度、王様になったんだ。ヨロシクな!」

「え?…あの、おとーさん、生きてるんだよ…ね…?」

「ウン、無事だよ、衰弱がひどくて今はふせってるけど。実は王様が生きてるってわかる前にこーゆーワケになってさ…、なりゆきだけどカタい事いいっこなし 。」

 

「いいんですか…?」

 

アキラが心配そうに首をかしげたがそんな言葉を聞いちゃいない倉田は、

 

「そこでだ マズ第一に、法律を変えようと思う!」

 

その ふっとい指先を、ビシッとヒカルに指して明るく言い放った。

 

「わが国は今後、女の子でも 王位を継げることとする!」

 

 

 


 

全55話としておりましたが、あんまり長すぎたので分けます。

申し訳ありません。

次回がホントの最終回。